掲載日 : [2008-04-25] 照会数 : 7472
外出困難な同胞の力に 訪問美容師の李さん
[ 李孝子さん ]
[ 現役時代に使っていたハサミとロット。23年以上経つが手入れが行き届いているので新品と変わらない。輪ゴムも当時のもので、パーマ液にも水にも触れている。これらの道具は美容師の見習い期間に揃えたもの。李孝子さんの宝物だ。 ]
外出困難な同胞の高齢者や障害者、寝たきりの人たちを対象に、昨年10月から訪問美容師としての活動を始めた在日韓国人2世の李孝子さん(48、東京・品川区)。結婚後、夫とともに焼肉店を切り盛りしてきたが、23年ぶりに再びハサミを手にした。「オモニの死がきっかけになりました」と話す李さんに思いを聞いた。
「もう一度ハサミ持って」
胸に響いたオモニの〞遺言〟
李孝子さんはよく笑う。緊張が解けるようなその笑顔を見ていると、ついこちらも顔が緩んでしまう。
昨年10月25日からスタートした訪問美容師。現在、知り合いの母親で、要介護認定を受ける85歳の日本人女性の髪を手がける。糖尿病と複数の病気を抱え、歩行も不便さを感じている。
当初、その知り合いの女性から「母は少し頑固な性格。できれば髪を切ってほしいけれど、気むずかしい人だから」と聞いていた。数カ月もの間、洗髪していなかったという。
初日、流し台で丁寧にシャンプーをした後、カットした。「頭を洗わせていただいたとき、凄く喜んで下さいました。最近、仲良くさせていただいています。娘さんも仕事を持っているので、留守のときにもお願いしますという話がありました」
利用者の希望基本に生かす
利用者は体力的に長い時間、座っていられない。カット、シャンプーなどはできるだけ短時間で仕上げる。
回を重ねるうちに見えてきたことがある。「美容師の立場から見て綺麗か、左右対称になっているかということではなく、例えば一方を見て寝ているのであれば片方だけを刈り上げてもいい。情況を考慮しながら、その方がしたいようにするのが基本」
高校2年生のとき、岡山の倉敷市に引っ越した。学生時代から若白髪だったという李さん。「転校してからの第一歩」は白髪染めだった。
初めて入ったその美容院は「別世界。若い人も多いし、すごく綺麗でまばゆいばかり」。
以前暮らした町の美容院は散髪屋と区別のつかないような場所、あまりの落差に驚いた。何度か足を運ぶうちに美容師たちの軽妙な会話に惹かれていく。
父親は1歳のときに死去。「将来、自分で食べていけるために」迷わず美容師になることを選択した。高校卒業後、通信教育で勉強を続けながら、「白髪染め」をしたその美容院に就職、昼間は現場で働いた。
「毎日朝から夜まで大変でした。実技は先生に教えてもらいながら、お店でカットやシャンプーの練習をします。訓練の日は営業が終わってから先輩が横について行いますが、そこで許可が出れば実践に移り、お客さまから苦情が出なくなったら次に進むという世界でした」
美容院生活で在日の目覚め
李さんはこの美容院で「人生のスタート」も切ったと話す素晴らしい出会いをした。当時、通名を名乗り、まだ朝鮮籍だった。先生や先輩たちが李さんに興味を持ち、「お母さんはどういう人」「いつ日本に来たの」「チマ・チョゴリはどんな感じ」などと絶えず語りかけてくれた。
「私は日本の社会でいじめとか受けたことはありませんでしたが、なんとなく自分が嫌いでした。どこかで嘘をついているような感じだった。小さいころからどこかで避けていたところはありました。でも美容院での触れ合いを通して私は在日なんだ、チマ・チョゴリを着ていいんだと目覚めていきました。それから少しずつ自分や親のことを考えるようになりました」
またこの美容院では月1回、奉仕で特別養護老人ホームで活動。李さんもその時の経験が役にたっている。
美容院には5年半在職したが、美容院側の理由により閉鎖。24歳のとき2度目の引っ越しを経て勤めた美容院で室長になる。翌年、結婚のため東京に移り住み、夫と義姉で営んでいた焼肉店を夫婦で切り盛りすることになった。
美容師時代、勉強のために通ったさまざまな場所に行くと自然と涙が出た。「正直、いつかは美容師に戻りたいという気持ちはありました」。だがその気持ちは誰にも告げず心にしまった。そして一部を手元に残し、道具一式を知人に譲った。
夫とともに焼肉店を営んで15年。訪問美容師になるきっかけは、皮肉にもオモニの死だった。2年前、84歳で亡くなった。
子どもたち3人を女手一つで育てあげた。亡くなる2年前に転倒し骨折。入院した際、健康診断を受けたが異常はなかった。兄姉3人はそれぞれ異なる地域に暮らす。当時、オモニは兄一家が面倒を見ていた。李さんも姉も仕事を抱え、頻繁に会うことはできなかった。
それまで元気だったオモニがガンを発症した。亡くなる2週間前くらいにはやせ細り、その姿は一変していた。身長150㌢足らずの義姉は、一人で風呂に入ると浮くからとオモニを抱きかかえるようにして入浴していた。
そのとき義姉から「オモニの髪が少し伸びたから切ってほしい」と頼まれた。たまたまハサミが見つからなかった。それから程なくしてオモニは逝った。
目に焼きついたオモニの姿がある。「最後は吐血しながら亡くなりました。オモニは白髪だったのに、切ってあげられなかった伸びた髪のそこだけが血で染まり込んでいたんです。本当に辛かった。娘としてよりも美容師という職業を持ちながら切ってあげられなかった。そこから落ち込みました」
「金儲けより本分を」
いつかは戻りたかった道
李さんは、オモニは自分の死を通して「お金儲けではなく、もう一度ハサミをもって何かしなさい」ということを教えてくれたと受け止める。自分の人生を考えた。「もう一度やりたい」。迷いはなかった。夫も承諾してくれた。
現在、着付けの学校にも通う。要望があればチマ・チョゴリの着付け、化粧もサポートする。訪問する際、さまざまな場面を想定して新聞紙やシャンプーハット、ごみ袋、鏡、クリップ、ガーゼなどの小物をカバンに詰める。
「少しでも同胞の方たちのお役にたちたい」。叶えられなかったオモニへの思いは今も失せていない。「同胞の方から声がかかれば嬉しい」と話す顔に溢れんばかりの笑顔が戻った。
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(参考料金)シャンプー2000円、カット(シャンプー込み)3000円、パーマ5000円、カラー5000円。
問い合わせは李孝子(携帯080・1331・3736)、(FAX03・3490・5783)。
(2008.4.30 民団新聞)