公党を裏で操る<主体思想派>
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根深い<従北勢力>
「統合進歩党は死んだ」
「民族・解放」の《NL派》と、「民衆・民主」の《PD派》に大別されてきた韓国の新世代左翼も理念・思想、主義・主張、戦略・戦術が多様化し、お互いの関係はかなり複雑になっている。
正統マルクス・レーニン主義に近いとされた《PD派》は、社会主義圏の崩壊に衝撃を受け、多くが現実的な西欧型の社会民主主義路線へシフトした。これに背を向け、80年代の急進路線にこだわる守旧派も《PD派》には残っており、彼らはむしろ《NL派》にシンパシーを寄せる。《主思派》が牛耳っているその《NL派》にも、<非主思派>と呼ばれるグループがあり、《主思派》でありながら北韓に従属することをよしとしない<非従属派>も存在する。
解放前後からの旧世代左翼とはつながることなく、主として80年代の民主化運動の過程で台頭したのが新世代左翼だ。この30年余の間に、社会主義諸国の没落に加えて北韓の体制破綻が赤裸々になっただけに、多数のセクトに枝分かれしても何ら不思議はない。
こうした左派陣営にあって、組織性と活動力にもっとも優れ、現在も隠然と命脈を保っているのが《主思派》だ。なかでも《救学連(救国学生連盟。86年3月結成)》↓《反帝青年同盟》↓《民革党(民族民主革命党)》と続くラインが主流とされる。いずれも<主思派の代父>と呼ばれた金永煥が主導した。
民革党の巣窟
このラインの残余勢力が掲げる現在の表看板は、第19代国会議員選挙で13議席(地域区7・比例6)に躍進した統合進歩党だ。この最左翼の公党には、自己系列の組織要員の政治行動を決定し、命令する強固なインナーグループが存在する。比例代表候補の党内競選(公認獲得)で不正を働き、これに端を発した内紛で浮上した《京畿東部連合》がそれだ。これこそ《民革党》出身者たちの巣窟である。
彼らは裏組織の力をいかんなく発揮した。幽霊党員を選挙人にしつらえての<代理投票>や<集団投票>などの不正手段を動員し、当選可能な比例代表順位のほとんどに自派の系列を押し込むのに成功している。これで第19代国会議員に<当選>した代表的な人物が李石基と金在妍だ。
李石基は、左派陣営はもちろん統合進歩党内部でも知られた存在ではなかった。それでも、競選の一般名簿投票で1位となり、比例代表候補の2位に収まった。「青年の枠」から出馬して3位に入った金在妍は、済州基地建設に絡んで韓国海軍を海賊と罵った《PD派》系の金ジユンを予想外の大差で退けている。
競選不正に対する論難が党内外から巻き起こると、全国女性農民会総連合会の前会長で、比例代表1位の尹今順は5月4日、自ら責任をとるかたちで辞任を宣言し、競選に参加した比例代表候補全員の辞任・辞退を要求した。この女性農民団体は統合進歩党の排他的支持団体である。
除名案を否決
だが、論難がもっとも集中する李石基、金在妍は、党紀委員会から除名を通告されても辞任に応じる素振りすら見せていない。彼らの支持者はむしろ、「2議員の除名は公安勢力の統合進歩党への攻撃の始まりであり、分裂を利用して党を回復不能状態にし、野党圏連帯を破綻させるもの」と扇動している。
除名通告は結局、7月26日の議員総会で否決された。議員総会は、統合進歩党の前身・民主労働党のソウル市党委員長だった李相奎(地域区競選不正で失脚した統合進歩党代表・李正姫の選挙区から出馬)が欠席して12人による採決となり、棄権5・白票1で過半数の7に届かなかった。白票を投じたのは緑色連合事務処長・金霽南(比例5位)と見られている。
中立系とされた金霽南だが実は、06年10月に摘発された民主労働党内の北韓に忠誠を誓う組織《一心会》事件の関連者だ。ソウル中央地方法院の判決文に「金霽南を金日成主義による大衆指導の核心として育成し、市民団体を反米大衆闘争に積極参加させるよう指導」などの記述がある。彼は《一心会》を積極的に支援していたという。
嘆く知識人ら
この除名否決を受けて、李石基が「今日は真実が勝利し、進歩が勝利した日だ」と語ったのをよそに、「主体思想派は生き残り、統合進歩党は死んだ」との嘆きや憤りが左派系知識人たちの間で広がったのは当然であろう。
血税による公的資金を受ける公党でありながら、統合進歩党は公の意思決定機関よりはるかに強い力をもつ《京畿東部連合》によって操縦されてきた。今回の内紛によっても証明されたのは、同党における《主思派》・《従北勢力》の根深さである。
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全国ネットで際立つ活動力
「手段方法を選ばず」…簡単に釈放された骨髄分子
《京畿東部連合》は、この地域でだけ活動する集団ではない。《民革党》再建派を中心に《主思派》の残滓が形成した全国ネットになっている。その活動力は際だって旺盛との評判だ。
民主労働党指導部の《従北》姿勢を糾弾して離党した《PD派》系が、08年3月に結成した進歩新党のある党員はこう証言する。(月刊『新東亜』5月号。要旨)。
「執権を準備」
「城南のある事務室に<2012年執権を準備しよう!>とのスローガンがあった。自分たちを執権の主体として明確に設定している。これがあの京畿東部かと衝撃的だった。活動は全国に及ぶ。活動家の一部がある抗議籠城闘争に結集したかと思えば、他の一部は4・27再・補欠選挙(昨年)の支援に遠く全南・順天(国会本会議場で催涙弾騒ぎを起こした金先東が当選)に行き、夜遅く帰ってきた。自分が嫌い、排斥する組織ではあるが、その活動ぶりは尊敬に値する。進歩新党が勝てるわけがない」
こうした《京畿東部連合》にあって、衆目の一致する<最高実力者>が李石基だ。金在妍はその後継者と目されている。李石基とはいかなる人物か。
本人は統合進歩党での立場について「党の実権派は党員だ。自分は中心的な実務担当者に過ぎない」と言い、《民革党》との関係も全面否定する。
ここで再び、金永煥に登場してもらわねばならない。彼はさる3月29日、「北韓民主化ネットワーク」研究員として中国で活動中、同国の公安当局に国家安全危害罪で逮捕・拘禁され、7月20日に国外退去の処分を受けて帰国した。この事件に関する「朝鮮日報」とのインタビューで《民革党》と《主思派》、そして李石基について語っている(7月31日付。関連部分要約)。
「民革党は点組織であり、李石基と直接会ったことはない。だが、私は中央委員長(序列1位)として当然、彼を知っていた。河永沃(序列2位)が李石基(序列5位)を指導する構図だった。解体について彼らは、私が変節したと主張した。民革党の基礎は主体思想であり、金日成・金正日に従うべきだ。それに反対するなら脱退すべきであって、なぜ壊すのか、という理屈だった」
金永煥はさらに、「統合進歩党の李石基グループはいまだ主思派だと考えるか」の問いに対し、こう答えた。「指導した立場から見て、彼らがかつて主思派であり従北であったのは間違いない。行動様式や発表される声明などを総合すれば、現在も過去とさほど変わっていないと思える」
《民革党》は97年9月、中央委員3人のうち金永煥と宣伝担当の朴某(弁護士。非公開)が河永沃の反対を押し切って解体を決議したことで分裂、河永沃は自分が統括していた嶺南委員会、京畿南部委員会を基盤に再建を進めた。だが、秘密活動に徹したさしもの《民革党》も、結党から7年後の99年8月、意外なルートから摘発される。
麗水沖で撃沈(98年12月)された北韓の半潜水艇が翌99年3月までに引き上げられた。そこから、《民革党》再建のために河永沃と接触し、指導を終えて帰還する途上だった北韓工作員・陳運芳(韓国では実在の人物・元鎮宇を偽装)の遺体とともに、《民革党》の存在を裏付ける物証が押収されたのが端緒だ。
宥和政策の中
この年の8月に金永煥と河永沃が相次いで逮捕され、時をおかずして再建派の沈載春(当時、大学講師)、金京煥(『マル』誌記者)が拘束された。その後、00年8月に嶺南委員長・崔ジンス、同年9月に嶺南委麾下の釜山地域委員長・李義、02年5月に京畿南部委員長・李石基が検挙された。一方、金永煥が解体派に自首を呼びかけたこともあり、彼の対北連絡責である祐植ほか15人が早期に出頭した。
金永煥は《民革党》の解体決議を主導したこと、自ら<転向>を表明し解体派に自首を勧めたことなどが考慮され、公訴保留となった。祐植以下の自首組にも同様の措置がとられた。
大法院まで争い懲役8年を宣告された河永沃は03年3月、盧武鉉大統領の就任記念特赦で釈放された。李義も収監から1年足らずで出所し、2年6月の懲役に服した李石基も、03年の光復節特赦で釈放されている。
いずれも、北韓に宥和的だった金大中・盧武鉉大統領時代だった。《主思派》のなかでも骨髄分子、精鋭分子と言われたメンバーがいともたやすく野に放たれたわけである。
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表舞台に出た<最高実力者>
信念は<民革党>のままに
統合進歩党に公然と関与してきた《民革党》の構成員は、同党の序列5位で再建派ナンバー2の李石基のほかに、第19代国会議員になった李相奎(首都南部地域事業部長)、党戦略企画委員長兼第19代総選挙対策委員長だった李義(釜山委員長)、同総選で蔚山北区から出馬して落選した金昌鉉、党傘下の進歩政策研究院副院長・朴キョンスン(ともに嶺南委員会)などである。
これと関連して興味深い報道(「朝鮮日報」5月16日付)があった。比例候補競選不正を最初に告発した統合進歩党の地方議員が、李石基の側近中の側近の話として証言したものだ。その側近はこう語ったという。
組織序列5位
「我々には職業的に選挙に出馬する人がいる一方で、裏で支援をし、理論的根拠をつくる人物がいる。李石基は10年余にわたって陰でサポートし、理論的根拠を示してきた。彼は服役後も信念を失わなかった。今回の総選挙では内部決定に従い、彼を擁立した」
国会議員であっても組織内での序列が高いとは限らない。左翼組織や宗教団体を母胎にする党派ではよくあるパターンだ。満を持して《京畿東部連合》の<最高実力者>が表舞台に登場したことになる。
金永煥が指摘したとおり、李石基の信念は《民革党》時代のままだ。それにしても、彼を指導する立場にあった河永沃はどうなっているのか。
河永沃と金永煥は、ソウル大法科大の同期で同年齢だ。金が『鋼鉄書信』で主体思想を広めた宣伝扇動家もしくは理論家の側面が強いとすれば、河は《反帝青年同盟》の実質的な指導者であっただけでなく、《民革党》でもっとも堅固とされた嶺南委員会を統括するなど、オルグ能力に優れていたとされる。二人は《主思派》の両輪でありながら、当初からライバル関係にあった。
金永煥は北韓から「通信連絡を担当する対象者を包摂し、ともに入北せよ」との指令を受け、ソウル大の1期後輩である祐植をともない、江華島から潜水艇で北韓入りした。だが、金永煥が最初に同行を求めたのは河永沃だった。捜査当局は、河は金の下で格下の連絡責になることを嫌い、同行を拒否したと見ている。
北韓工作機関がまず金永煥に白羽の矢を立てたのは、宣伝扇動面で河永沃よりも運動圏に及ぼす影響が大きいと判断したためだ。元工作員らの証言によれば、金日成は彼を「一大学生なのに、わが国の社会科学院の学者たちよりもよほど優れている」と高く評価していたという。
「屑鉄」と罵倒
北韓から最初に信頼され、朝鮮労働党から「現地入党権」まで委託された金永煥は、《主思派》で絶対的な存在であった。河永沃は、金永煥の背後に労働党の<権威>を見たからこそ、《反帝青年同盟》の指導権を金永煥に譲り渡したのだ。鬱屈するものがあったことは想像に難くない。
河は逮捕される以前、『マル』誌(99年7月号)に「鋼鉄、金永煥にもっとも近い同志、河永沃の電撃批判‐お前が勝手に生きるのはかまわないが、これ以上運動を売るな」と題して寄稿した。「君は『鋼鉄』ではなく『屑鉄』だ」とし、「君の今の行動は、この土地の自主と民主、統一のために黙々と仕事をしている人々の背中を刀で刺す行為だ」と激烈に罵倒している。
北韓式組織の特性からしても、核心中の核心は表に出ない。河永沃は非公開の組織で重責を担っているものと推測されている。
(文中・敬称略)
(2012.8.15 民団新聞)