掲載日 : [2017-06-14] 照会数 : 10790
世界遺産へ友好の道…ソウル〜東京21世紀の朝鮮通信使<5>
[ 清見寺本堂に掲げられた朝鮮通信使の扁額(16日) ] [ 民団神奈川県本部前で恒例の冷水プレゼント(21日) ] [ 日・韓・在日のウォーカーらが満面の笑みでゴール記念写真(22日) ]
5月16〜22日
■□
日本側資料の4割所蔵
ユネスコ申請 清見寺訪問、説明受ける
家康像に親近感
【16日】静岡交流日。駿府城公園を地元ウオーカーの中西晴代さんの案内で見学。復元された東御門を入り徳川家康の銅像へ。朝鮮通信使の再開に力を尽くした家康に韓国ウオーカーはとても親近感を抱いていて、かわるがわる記念写真。
静岡県庁を表敬訪問。増井浩二・地域交流外交監は「清水区の清見寺には記憶遺産申請の日本側資料の4割があります。皆さんのウオークで日韓両国の関係が良好になるように期待しています」とあいさつ。正使役の宣相圭・韓国隊長は「私たちがたどった道が平和の道につながると信じています」と応えた。
バスで清見寺に移動し、朝鮮通信使の研究家、小幡倫宏さんの案内で朝鮮通信使が書いた山門の「東海名區」、仏殿の「興国」の扁額の説明を聞いた。本堂欄間に掲げられている数多くの通信使が書いた詩文(扁額)の内容が、時代によって朱子学から実学へと変遷してきているという解説は新鮮な解釈で興味深かった。
歓迎夕食会が民団静岡本部や静岡文化の風など市民有志主催で行われた。第3次、5次参加ウオーカーの竹野昇・袋井市議が司会、姜再慶団長が乾杯の音頭をとり、ウオークの苦労話に花を咲かせた。最後に参加者全員が会場いっぱいに手をつないで広がり、恒例のアリラン・ふるさとを唄いあった。
【17日】清水‐吉原。朝は少しヒンヤリして19℃。昨日訪問した清見寺を通り薩 峠へ。登り口で貸出し用の杖を手にして急な坂道・階段を上ると右下に太平洋が見えてくる。海の青と新緑が美しい階段を上り峠に立ったが残念ながら富士山は見えなかった。大きな甘夏ミカンの林を抜けて峠の駐車場へ。冷たい緑茶のサービスで迎えられ、家康姿の高木強・清水区長が見送ってくれた。富士市役所では富士山は見えないが、屋上で歓迎式が行われた。宣さんと遠藤隊長が願いを書いた絵馬をかけて森田正郁副市長と共に、日韓友好を願って「希望の鐘」を鳴らした。
吉原の宿には今回も黄福礼さん(86)がひっそりと訪ねてきた。10年前の第1次から「韓国人も在日も日本人も一諸になって歩いて交流する姿に感動した」と毎回10万円と冷たいビールを差し入れてくれている。「足が悪くなったから次はもう無理でしょう」と帰ってゆく老婦人の後ろ姿に手を合わせるばかりだった。
【18日】吉原‐三島。お寺の後ろから護岸堤防に上り、右手に広がる相模灘、左手に密集した防風林の松林を見ながら進む。はるか右奥には伊豆半島が霞んで見える。歩きはじめの松林の上には今日も富士山の姿は見えない。信号が無くウオークの列が分断されないので列は長く長‐くなってゆく。
昼食の後は日陰の多い松林を歩いて沼津市へ。旧道と国道を交互に歩き三島市役所を表敬訪問。市の職員が日韓の小旗を持って迎えてくれた。豊岡武士市長は「日韓のウオーカーが歩くこの旅で両国の友情が深まることを期待しています」と激励してくれた。
富士山見ながら
【19日】三島‐小田原。すっきりと晴れあがり、ようやく顔を見せた富士山を見ながら箱根峠を目指して上り進む。復元された杉木立の石畳古道はひんやりとして汗をかいた体に気持ちがいい。上りきった峠の気温は17℃とさわやか。芦ノ湖への下り坂「挟石坂」はとても急峻で幅も狭い。おっかなびっくり下りるが、通信使が乗った輿や馬は本当に通れたのだろうか?と不思議な気がする。箱根関所は通信使も乗馬のままでは通れず三使以外は下馬したという。
【20日】小田原‐藤沢。小田原城を背に民団神奈川県本部の白海秦議長らに見送られて出発。国道1号線の歩道を歩き進む。今日は気温がぐんぐん上がりとにかく暑い! 初参加でソウルから歩いている李充喜さん(59)は「時間の設定など日本の生活習慣に戸惑ったが、都市や町がすべて清潔で歩きやすい。日本ウオーカーの思いやりが素晴らしく、楽しく歩いています」と汗を拭きながら髭一杯の顔をほころばす。大磯城山公園の緑陰で昼食。
藤沢宿に新設されたふじさわ宿交流館では、湘南日韓親善協会の鄭真志副会長(民団湘中支部団長)らに「ようこそ藤沢へ」の歓迎横断幕で迎えられ、「あと少しです。ガンバッテください」と激励された。
■□
韓日間「理解増進」を確信
双方 若手の参加働きかけ
多くのことを知る
【21日】藤沢‐川崎。今朝も快晴で、日差しを受けた気温は28℃。今回、日本ウオーカーはだいたいが定年後の「年金組」が一般的だが、韓国ウオーカーは元会社役員や学校の先生が多いのが特徴だ。先生の中では英語の先生が多い。
初参加の元商社マン、小林克一さん(71)は「韓国メンバーと話していて驚いたことがあるんです。というのは長距離ウオークのきっかけが朝鮮戦争の時に両親が北から逃れて来た時の道をたどって歩いたことだ、というんです。やはり北朝鮮との関係が実生活の中に色濃く反映しているんだ、と実感しました」と話す。
休憩はだいたい歩行1時間半ごとに行い、冷水と氷の供給を行うが、熱さのためサポート車が用意した2㍑の冷水・健康飲料8本と大きな氷袋3袋は瞬く間に「消費」されてしまう。雨の日もそうだが、暑い日も話しながらの歩行は少なく、ひたすら黙々と「休憩ポイント」ヘ向けて歩き進む。
午後の気温は木陰でも30℃を越えた。そんな中、民団神奈川本部前では呉吉明事務局長らが出迎え、恒例の冷水の差し入れを受けほっと一息ついた。
今回ソウルからの全コースを初めて歩いた韓国コースのコースリーダー・姜鎬甲さん(64)は「地元に詳しいコースリーダーにガイドを任せるシステムが素晴らしい。私たちの友情ウオークは民間の外交使節団のようなもの。お互いに楽しく友好的に日本の道を歩けて楽しかった」と感想を話した。
また医療福祉関係の大学準教授だった在日の金升子さん(71)は「人との出会いが興味深かった。中でも韓国と在日のウオーカーの関係は、歩きながらの日常の中ではじめてわかったことも多かった」という。土曜日でたくさんの人で混雑する川崎駅に午後6時前にたどり着いた。
【22日】川崎‐東京。デーリーの参加ウオーカーが70人を越え、総勢110人以上となったため、急きょ出発式を川崎駅前から稲毛公園に変更して移動した。デーリー隊の中にはウオークスタイルの民団中央本部の林三鎬副団長、同東京本部の呉永錫副団長や松井貞夫・前釜山総領事、姜基洪・前韓国観光公社副社長の顔も見える。
本隊ウオーカー最年長の金承南さん(83)の「ゴーゴー、レッツゴー!」の掛け声で歩き出した。100人を越えるウオーカーの歩みなので、信号ごとに列が分かれていくつもの集団になり長い列になっていく。
京都‐名古屋を歩いた金保雄さん(民団東京渋谷支部支団長)も「最終日はもちろん参加ですよ」と約束した通り、ノボリ旗を持って歩いた。多摩川の六郷橋を渡ると、民団東京・大田支部のメンバーが、「2000㌔ウオークご苦労様でした」のプラカードを掲げて、ウオーカーらを歓迎してくれた。
品川宿の旧東海道商店街ではおばあさんが「なんじゃろか?」とけげんそうな顔つき。昼食場所の品川駅東口の公園では「みなさんは朝鮮通信使の関係?」とサラリ‐マンから質問された。チラシを渡すと「前から興味を持っていたんです。記憶遺産に登録されるといいですね」とうなずいていた。
満面笑みゴール
観光客でにぎわう皇居に進み、二重橋横を通り、たくさんの人たちが「おめでとう!」と拍手する中を日比谷公園にゴールした。金承南さんは韓国の張禎充さん、在日の李性任さん、日本の嶋文子さん、森紀子さんと両手を高く上げてゴールし喜びを表していた。
あちこちで抱き合い、握手しあい、肩をたたきあう光景があふれる中、正使役の韓国隊長・宣相圭さんは「金井さん、私たちの歩いた朝鮮通信使の道が平和の道につながることをたくさんの韓日の人たちが理解してくれました。これからはもっと若い人たちに参加してもらいたい。すぐにその働きかけを始めなければ」と静かな口調で決意を語った。
そして喜びの渦の中、腰痛の痛みで最後の数日間を歩けず、私のサポート車に乗って忸怩たる思いだったソウルから東京まで参加した柳炳熙さん(66)は「困った時に助け合う、気持ちがよくわかりました。次は私の番だよ!」と私に話しかけた笑顔の眼が印象的だった。
おわり
(文・写真 友情ウオークの会 金井三喜雄)
(2017.6.14 民団新聞)