掲載日 : [2008-06-28] 照会数 : 8514
フラッシュ同胞企業人<24>親子3代の鉄屋夢みて
[ 1949年大阪生まれ。明治大学工学部建築科卒。大和ハウス工業に勤務し1級建築士取得。06年に島村鉄工所社長就任。1男2女。 ]
鉄板を専門に加工する
島村鉄工所の金和用社長
大阪市西区の九条南。かつて「鉄屋の町」と呼ばれ、ボルトやナットをつくる町工場が軒を連ねた。同胞の従事者が多かった関係で、1955年、父親の金甲南会長(85)がスクラップ業から転じてプレス関係の仕事を始めた。
「どこも同じだが、家族総出で、自分も手伝った」。当時、「両親ともに従業員に対する面倒見がよく、仕事場は家族的雰囲気だった」と振り返る。鉄板を打ち抜き、いろいろな形をつくる仕事がほとんど。
水道管のパイプのつなぎ用に使われる各種「フランジ継ぎ手」が主なものだった。
大学卒業後、大和ハウス工業に7年間勤務したが、80年の法人化を機に、島村鉄工所に戻った。2006年に社長職に就いたが、「専務の肩書のほうが動きやすかったので、交代が遅れた」。
競争相手は海外
「ボルト・ナット類は中国など海外製品に押され、受注は減少するばかり。それに歯止めをかけようと、少しずつ新製品に挑戦していった」
ボルトやナットの頭がめり込まないようにする各種座金(ざがね)、壁つなぎ用のアンカープレート、建築部品や機械のボディ部品などがその例で、ガス切断する溶断機器の導入により、鉄板があらゆる形に加工できるようになった。
「同じものでは中国製品にとうていかなわない。多品種少量化を進めることで、中国では生産できないものを手がけ、マージン率の高いものへと差別化を図った」
それでもバブル崩壊後、売上高は好調時の3分の1までに減少した。「円高が1㌦=80円まで進んだときは、もうだめかと思い、廃業すら考えた」
気を取り直し、工場の一部を閉鎖するなど、10数年前から会社のスリム化に取り組んだ。最近、ようやく一段落したところで、「余力がある時に始めたのが幸いだった」。現在、社員は11人おり、07年度の売上額は約4億円。工場は大正区泉尾に。
「より良いものを早く、安くは製造業の鉄則。顧客の要望に合ったものをいかに作るかが大事。目に見えないサービスで付加価値をつけながら、顧客の確保に注力したい」。現在の取引先は常時50社ほど。
50年の実績誇る
「プレスで分厚い鉄板を打ち抜く作業は、最近、少ない。それができるのは、関西地域で数カ所だけ。その点、プレス作業を50年やってきた実績がうちの強みで、さまざまな部品や製品に活用することができる」と強調する。
「鉄屋は、素材を1次加工する分野。固定化された顧客が多く、新規開拓はなかなかむずかしい。40年近い取引先もある」。常に、「縁の下の力持ち」的存在だという。
「今は鉄板の加工だけだが、将来的には、H型鋼などの製品づくりも目指したい」。現在、長男が鉄関連の商社に勤務中だ。
「長年にわたり培った信用を生し、プラスアルファを生みだせる基盤を築きたい」。3代にわたる「鉄屋」が実現する日は、近い。
(2008.6.25 民団新聞)