鹿児島・知覧基地から飛び立った特攻隊員たちが呼び戻される「季節」だ。石原慎太郎総指揮による映画芸術ワースト2の『俺は、君のためにこそ死ににいく』(07年)の演劇版が靖国神社境内で上演される。
この、「君のために」といったフレーズのはしりは、「愛する女性と自らの民族のために出撃」した朝鮮人特攻隊員が登場する『ホタル』(01年)であろうか。降旗康男監督が「(隊員は)大日本帝国のためではなく、家族や自分を育んでくれた故郷の山河のために、自分を無理矢理納得させて死んでいった」と語ったように、この映画は「反戦」だったはずである。
その意図とは裏腹にも、「家族のため、愛する人のため、死をも覚悟した彼らの純粋な気持ち、絶対軽く見ちゃいけない」という思いを若者に広げ、今日の知覧ブームにもつながった。ひたむきに生きた特攻隊員と故郷や家族や愛する人を、生殺与奪の権力を握った国・軍部をスルーして結びつけ、戦争政策の責任を不問に付すかのような手法はいつしか、右派の特許となった感がある。
隊員の多くは技能未熟な学徒兵だ。軍部は金をかけた熟練の戦闘機乗りの特攻は避けた。敗戦時の鈴木貫太郎首相の「いやしくも名将は、特攻隊の力は借りないであろう」の言葉が示すまでもなく、この戦法は多くの軍幹部が邪道としてもいた。
敵艦に突っ込めた隊員はわずかである。その彼らは、機関砲を撃ちまくる砲手のひきつった顔を見たはずだ。湧いたのは憎しみか、一矢報いる喜びか、あるいは不条理に相見えた切なさか。そして自身の走馬燈は何を映したのか。闇夜にたゆたう螢に聞いてみたい。(D)
(2015.7.15 民団新聞)