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第1号「解放の喜び」
1948年8月15日に大韓民国政府が正式に樹立するまでの米軍政時代、韓国人が最初にデザインした切手は、1946年5月1日発行の〞解放切手〟だ。この切手は、太極旗を背に親子3人を描いた構図で〞解放朝鮮/記念郵票〟の文字が入っており、総計4470万枚発行され、実質的に普通切手として使われた。
その後、大韓民国政府樹立に先だつ1948年5月の国会開院、7月の憲法公布に際しても記念切手が発行されている。どちらの切手にも日本統治時代に朝鮮総督府だった建物が中央庁として描かれている。
また、一般の歴史書では見落とされがちだが、1948年のロンドン五輪に史上初めて〞KOREA〟代表が参加したことも、切手には記録として残っている。
韓国系アスリートが国際大会に本格的に参戦したのは、日本統治下の1932年に行われたロサンゼルス五輪が最初のことで、1936年のベルリン五輪ではマラソンの孫基禎が金メダルを獲得したが、〞日本人〟として扱われるという屈辱の前史があった。
日本経由で渡英
1945年の解放後、国際スポーツの世界においても〞KOREA〟は独立した存在としてIOC(国際オリンピック連盟)に加盟し、ロンドン五輪には、米軍政下の南朝鮮が〞KOREA〟チームを派遣したのである。
選手団は列車でソウルから釜山へ移動し、釜山からは米軍用船で博多へ渡り、そこから進駐軍の用意した特別列車で横浜まで行き、そこから香港へ渡って、香港からは飛行機で渡英した。
1948年8月15日、李承晩を初代大統領として大韓民国が正式に樹立する。これに対して、同年9月9日、ソ連の支援を受けた朝鮮民主主義人民共和国(以下、北韓)が政府の樹立を宣言し、韓半島には二つの政府が併存することになった。その北韓は建国当時の1948年憲法で〞南朝鮮の解放〟を謳っていたが、はたして、1950年6月25日、38度線を越えて南侵し、韓国戦争が勃発する。
北の周到な準備
北韓側は、戦争は韓国側の挑発に応戦したものと主張していたが、奇襲攻撃の利を活かして3日後の6月28日にはソウルを占領。さらに、わずか12日後の7月10日には〞ソウル解放〟と称して中央庁に北韓国旗の翻る記念切手を発行した。その手回しの良さは、あきらかに、彼らが事前に周到な準備をして南侵に踏み切ったことをうかがわせる。
釜山近郊まで韓国・国連軍を追い詰めた北韓だったが、1950年9月、マッカーサー率いる国連軍の仁川上陸作戦により戦況は逆転。韓国・国連軍はソウルを奪還した。この間、首都奪還した韓国の兵士が中央庁に太極旗を掲げる場面は、韓国軍の栄光の歴史の一齣として、1965年、首都奪還15周年の記念切手に再現されている。
さらに、勢いに乗る韓国・国連軍は38度線を越えて北上し、中朝国境の鴨緑江まで到達したが、北韓の崩壊を恐れる中国人民志願軍の介入を招き、押し戻される。以後、戦線は38度線近辺で膠着。1953年7月27日、休戦協定が結ばれた。
北韓による一方的な侵略を撃退するのに多大な犠牲を払ったにもかかわらず、ほぼ、開戦前の状態での休戦を余儀なくされたことに不満な李承晩政権は休戦協定への署名を拒否し、記念切手も発行しなかったが、中国人民志願軍の参戦により国家壊滅の危機から救われた北韓は休戦を〞朝鮮人民軍の勝利〟として金日成の肖像を掲げた記念切手を発行している。
韓国戦争の休戦後、李承晩は長期独裁政権を目指したが、1960年、大統領選挙での不正が明らかになり、怒った学生たちの抗議行動により、同年4月19日、退陣に追い込まれた。いわゆる419学生運動(4月革命とも)である。
しかし、李承晩を退陣に追い込んだ学生の活動は次第に左傾化の度合いを強め、混乱が長引くことで北韓が影響力を拡大することを恐れた朴正熙少将は1961年5月、軍事クーデターで政権を掌握した。
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「漢江の奇跡」を象徴
当時の韓国は、政治の混乱もあって戦後復興も進まず、経済的には貧困国の状態にあった。このため、朴正熙政権は、経済開発のためには日本との関係改善による外資の導入が不可欠との立場から、日本との国交正常化交渉に本腰を入れた。
その過程で、最大の懸案であった賠償問題については、韓国側の〞請求〟に応じ、日本側が無償経済協力3億㌦、政府借款2億㌦等を支払うことで、1962年2月、大筋の合意に到達。1965年6月、日本との国交正常化を実現した。当時、韓日の国交正常化に対しては、日本に対する積年の感情や、南北の分断を固定化するものとして反対の世論も強く、記念切手は発行されなかった。
両国間の国交正常化を題材とした記念切手は、1985年の20周年、1995年の30周年に両国で発行されているが、本年(2015年)の50周年に関しては、本紙発行の時点では、日本側の記念切手しか発行されていない。(ここでは日本が1985年に発行した記念切手を紹介した)
さて、韓日国交正常化当時の韓国の国家予算は約3・5億㌦だったから、〞請求権〟によって得られた5億㌦の資金は非常に巨額のものであった。
農村近代化進む
これに加えて、ヴェトナム戦争に派兵したことによって得られた米国からの経済援助をもとに、韓国政府は道路やダム・工場の建設などインフラや企業に集中的な投資を行い(その代表的な事例として、京釜高速道路や浦項製鉄所の開業時には記念切手も発行されている)、〞漢江の奇跡〟と呼ばれる高度経済成長を実現した。
また、社会・産業インフラの整備により経済力が向上すると、1971年以降、それまで経済開発から取り残されていた農村の近代化を実現するためのセマウル運動も展開された。
急激な経済発展を遂げる韓国に対して、1970年代に入ると北韓の経済は次第に失速していったが、日本国内では左派・リベラル言説が根強かったこともあり、〞軍事独裁国家〟の韓国を否定的にとらえ、〞社会主義国〟の北韓に対して好意的にとらえる傾向も強かった。
1970年に羽田発博多行きの日航機をハイジャックして北韓に渡ったよど号グループはその典型だが(ここでは、よど号に搭載されていたため、配達が遅れた速達便を紹介している)、金浦空港から北朝鮮に向かう犯人グループに対して、空港の清掃職員が「なんであんな貧しく、自由のない国に行くんだ」と尋ねたというエピソードはきわめて象徴的である。 朴正熙は1979年に側近の中央情報部長によって暗殺されるが、その基本的な経済成長路線は全斗煥政権にも受け継がれ、1987年に与党の大統領候補だった盧泰愚による民主化宣言を経て、1988年のソウル五輪開催により、韓国は先進国としての地位を確実なものとした。
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「小さな外交官」役も
一方、長らく途絶していた南北対話は、1971年、人道的な観点から南北離散家族再会のための南北赤十字会談によって始まった。これを機に、祖国統一は武力行使によらず平和的に南北間で自主的に行っていくとの基本方針が南北間で合意されたが、その後も北韓はビルマ・ラングーン(ミャンマー・ヤンゴン)での全斗煥暗殺未遂事件やソウル五輪妨害のための大韓航空機爆破事件を起こすなどしたため、南北対話は中断する時期も長かった。
五輪成功契機に
しかし、ソウル五輪の成功を受けて、国際社会が先進国としての地位を認めたことで、もはや北韓も韓国の存在と正統性を否定できなくなり、1991年、南北同時に国連に加盟することを承諾。
さらに10年後の2000年には金大中と金正日による南北頂上会談が実現し、北韓の記念切手に見られるように、両首脳は握手を交わした。こうした南北の緊張緩和の功績により、金大中は韓国人初のノーベル賞(平和賞)を受賞した。
その後も、2002年の日韓共催のサッカーW杯や2004年のKTX開業など、韓国現代史を彩る重要な出来事は切手というメディアに記録されており、この流れは今後も受け継がれていくことは間違いない。
なお、切手には自国の文化や自然を諸外国に紹介する〞小さな外交官〟という側面もある。韓国の場合、慶州の石窟庵と仏国寺をはじめ、ユネスコの世界遺産に登録された名所旧跡も数多く切手に取り上げられているので、それらを眺めて旅行気分に浸るのも楽しいかもしれない。
(2015.8.15 民団新聞)