掲載日 : [2016-01-27] 照会数 : 5126
<布帳馬車>アボジと民団史がリンクした
新年号の「親子3代 民団サラム」に、60代後半の2代目のなかには感懐を呼び覚まされたサラムもいた。そんな一人の語りである。
小学校低学年の頃まで、比較的同胞の多い支部でアボジは「プーダンジャン(副団長)」と呼ばれていた。バラックに毛の生えたような家でも人の出入りは多く、しょっちゅう車座になっての酒盛りがあり、大声張り上げての口論があった。花札をしては殴り合いになることもざらだった。
博打のカタなのであろう、黄色い油紙に包まれた拳銃、切れ味鋭い日本刀、朝鮮弓など凶器といわれる代物を届けたり、貰い受けに行ったり、パシリもずいぶんさせられた。そんな遣り取りで訪ねた先に、中央本部の大幹部になった人物もいた。
嫌いだった民団とは体調を崩したアボジが一線を退いてからは自然と縁が切れた。だが、同年代の同胞とつるみたい気持ちは強く、大学では韓国社会文化研究会に属した。その縁で、卒業後しばらくして青年会活動に誘われ、民団の歴史に関心をもってから自分は大きく変わった。
アボジが副団長だったのは6・25韓国戦争勃発の前年から、朝連が民戦になり、民戦が朝鮮総連になっていく時代だった。歴史を知ることで、財力・組織力・行動力で圧倒する彼らに劣勢の民団が立ち向かう姿と、棍棒を持ってトラックの荷台に乗り込むアボジやその仲間たちの群像が自分のなかでリンクした。
身体ばかりか精神にまで障害のある同胞がまわりに何人かいた。総連系との血みどろの闘いで負ったものだったのだ。彼らは熱誠団員でありながら、1代で終わることを余儀なくされたのではないかと思う。そんなサラムも顕彰してほしい。(J)
(2016.1.27 民団新聞)