掲載日 : [2018-01-01] 照会数 : 8415
新しい地平切り拓く若手在日同胞<金里香>
国家に帰属しなくても
「イヒャン」でなく「リカ」
金里香 韓国放送局プロデューサー
韓国に住んで、3年が過ぎようとしている。私は韓国籍で日本語を母語とする在日3世。日本の大学を卒業したのち韓国の大学院へ進学・卒業、今は韓国の放送局で働いている。現地の人は私のことをリカ、と呼ぶ。
きん りか
幼い頃から、私は自己紹介が嫌いだった。自分の名前を言うたび、私は顔を伏せた。周りが私の名前にどのような反応をするか不安だった。
私の名前を聞いて、「りかちゃんって何人なの?」という質問を受けるたびに私は曖昧にはぐらかしてきた。家の近くに在日や外国人が住んでいるわけでも無ければ、民族学校に通ったことも無かった。そんな私にとって「在日」というのは、強いられた烙印のようなものだった。この烙印を葬り去るために私は日本に固執し、日本人になろうとした。高校生の頃、学芸員になりたいからという苦し紛れの理由で帰化を試み、母と確執を起こしたこともある。
そんな私でも、高校を卒業するころには自分の正体を隠し続けるのに嫌気がさしていた。私はひとつの決心をした。自己紹介の段階で自分が在日であることを堂々と明かすということである。
幸い韓流によって韓国に親しみを感じる日本人も増えている時期であった。また、大学には多数の外国人留学生がいたため、私が在日だからといって煙たがる者もいなかった。むしろ韓国人だという理由で羨む者さえいた。私が「韓国人」を構成する要素を〞血〟と国籍以外に何ひとつ持っていないにも拘らず。そんな私が初めて自分の民族名に出会ったのは、大学2年の時であった。
キム イヒャン
私は韓国語を知らず、韓国文化にも全く興味が無かった。だが自己紹介で自分が在日であると明かすことは、在日として生きることにそれだけ責任を負うということでもあった。
私は大学2年の夏、思い切って釜山に短期留学をすることにした。
「イヒャン、君はやっぱり韓国人だ」
週末にソウルの西大門刑務所へ行って来たと話した私に、オンニやオッパはそう声をかけた。生まれて初めて抱く所属感に心地良さを感じた。
釜山から帰ってきた私はその後、1カ月で韓国語の基本的な文法をマスターした。一日中、韓国語の勉強をしても飽きなかった。「イヒャン」という民族名に恥じぬよう韓国文化を身につけねばならないという強い想いが原動力になった。
リカ
だが、いくら韓国語を身に着け韓国人と知り合い、韓国文化に親しみを感じるようになっても、私はイヒャンという民族名を自分の名前として受け入れることが出来なかった。生まれた時から「りか」と呼ばれ続けてきた私には、愛着が湧かなかったのである。
在日社会では俗に、日本名が歴史的悲劇によって強いられた「通名」であり、民族名が「本名」であると語られる。しかし私にとってそれは通念に過ぎなかった。そもそも両親だって娘が日本で生きていくことを前提に、私を「里香」と名付けたはずである。たとえ国籍が韓国であっても、愛着がある名を本来の名前だと主張しても良いのではないか。そう思うようになってから、私は韓国の友人には「リカと呼んで」と積極的に頼むようになった。
日本社会での排除の予感や経験は、在日をして民族名を本来の名であるかのように思わせる。もちろん歴史的に見たら民族名を本名と呼ぶのは正しい。しかし、韓国社会が在日を国籍や民族名によって包摂することは、在日から「在日」性をはく奪する行為でもある。 私が韓国に住みながら「リカ」という名で呼ばれることを欲するのは、周囲の韓国人に私の文化的特殊性に気づいてほしいからだ。韓国でもなお、「在日」として生き続けたいからだ。
私は現在、「キム リカ」という名を使いながら韓国で生活している。韓国で「在日」性を主張するのはそう簡単ではない。日本と同じく、韓国でも個人が一つの国家に帰属していることを当たり前のものとしてみなすからだ。私にとっては、そのような国家的包摂に抵抗する手段が名前なのだ。この抵抗は植民地支配や創始改名の差別を肯定するものではない。私が「リカ」という日本式の呼び方に愛着を感じ、本名のように受け止めている真実は、抑圧的構造とは別の次元で、私を私たらしめているのである。
1991年、東京生まれ。早稲田大学とソウル大学で人類学を学んだ後、現在は韓国の放送局でプロデューサーとして勤務中
(2018.01.01 民団新聞)