朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く <1> 対馬「御船江跡」
江戸時代の名浅を色濃くとどめる
朝鮮通信使とは、江戸時代に漢城(ソウル)から江戸に派遣された外交使節のことをいう。古代から文化交流が親密であった日本と朝鮮ではあったが、豊臣秀吉の文禄(1592~96)・慶長(1597~98)の役により、その関係は寸断されてしまった。
両国の国交回復を願った徳川家康は、対馬藩から漢城へ使者を送り続けた。その意が適い朝鮮王朝から「信義にもとづく国交でありたい」という『国書』を携えた朝鮮通信使が江戸を訪れ、1607年に友好が回復したのである。
ふたつの国にまたがる海峡に、飛び石のように浮かぶ島、対馬と壱岐。私は博多港から高速フェリーに乗って、まずは対馬へ渡ることにした。
厳原港から歩いて「御船江跡」まで約半時間だと聞いたが、日没が早い冬場のことだしタクシーに乗った。目的地に着いたころには、空は厚い雲に覆われ、今にも小雨が降りそうだった。
寛文3年(1663)に建造されたと推測される防波堤は、大小様々な自然石を上手に組み合わせた築堤(ちくてい)様式だった。厳原町教育委員会の資料によると「築堤の石積みは当時のままで、正門・倉庫・休息の建物などの遺構も残り、往時の壮大な規模がうかがうことができる。(中略)江戸期鎖国下にあった時代も、日朝外交上大きな役割を果たした対馬藩のひとつの象徴ともいえよう」と書かれていた。
土手に上ってみると、人工的に造られた入江に突堤(とってい)が4基、それから船を修理したり、船をつなぎ泊めるためのドックが5つあった。ここは県道24号線沿いにあるが、車の騒音も波の音さえも聞こえてこない静かなところだった。その風景は、江戸時代の名残を色濃くとどめていた。
突堤に船がつながれている全景は、これまでの資料写真などで多く見てきた。そこで私は対岸からの景色も撮ってみたいと、カメラバックを土手に置き、背丈ほどに成長した雑草をかき分けながら、入江に落ちそうになりながらのカニ歩きで、やっとのことで突堤まで辿り着いた。気がつくとタクシーを降りてから、半時間以上も過ぎていた。防波堤が邪魔をして私の行動が分からず、なかなか戻らない客人。「もしかして乗り逃げされたのじゃないか?」、という運転手さんの不安の気持ちがつたわってきて、急ぎ戻った。
車は亀が立つような形状から名付けられた「立亀岩」を通り過ぎて、次の目的地「武家屋敷跡」へ向かっていた。
◆藤本巧(ふじもと・たくみ)
写真作家。1949年、島根県大社町生まれ。独学で写真を習得。20歳から韓国の風土と人々を撮り続ける。
写真集:『韓(から)くに3部作』、『韓(から)くに、風と人の記録』、鶴見俊輔共著『風韻日本人として』などのほか各種雑誌でも連載。韓国国立民俗博物館をはじめ日本や海外で写真展多数開催。87年に大阪市の「咲くやこの花賞」、11年に韓国文化体育観光部「長官賞」を受賞。
(2018.05.30 民団新聞)