掲載日 : [2019-11-18] 照会数 : 6961
時のかがみ「古都慶州の近代を歩く」荒木潤(翻訳・執筆業)
[ 現在の金冠塚 ] [ 当時「慶州市民」奮起を伝える東亜日報記事 ]
新羅の遺跡金冠塚の宝物
住民がソウル移送を阻む
慶州に在住する研究者という立場上、知り合いの大学教授などから学生の引率で慶州へ行くので、学習に役立つところを案内してくれないかという依頼を時折受けることがある。今年の秋は2回金冠塚を案内した。
慶州市街中心部にある金冠塚は三国時代の新羅特有の積石木槨墓である。元々は小高い円墳だったが、現在は三日月型に変形してしまっている。朝鮮王朝期は墓ではなく小山として認識されていたようだ。観光客があまり訪れず、ひっそりとたたずむこの古墳は、あまり知られていないことだが、近代史においても極めて重要な意味を有する。
韓国併合直後、市街地整備の一環で後に「金冠塚」と呼ばれることになるこの小山の横に新しい道が敷設された。この工事で小山の横腹が削られ、その原型は失われた。開通した道路は「本町通り」と呼ばれ、慶州随一の繁華街となった。
削られた小山の横では朴さんという人が飲み屋を経営していた。1921年9月末のことだった。朴さんが裏庭で何か作業をしていたら、パカッと穴が開き、おびただしい量の古代の宝物が出現した。
宝物の中には金製品が多く、特に金冠は耳目を集めた。新羅の金冠が出土するのは初めてのことで、この名無しの小山は「金冠塚」と名付けられた。地域社会は「新羅王の金冠が見つかった」と騒然となった。朝鮮総督府はこれら稀代の宝物をソウルに運び、当時慶福宮にあった総督府博物館での保存・展示を計画した。 この目論見に慶州の人々が猛反発し、「金冠塚出土遺物慶州留置運動」を展開した。この運動は功を奏し、これら宝物は地元慶州で保存・展示されることになった。この運動が特異なのは地域の朝鮮人と日本人が手を結び、強大な権力を持つ総督府に対抗し、成功を収めたという点だ。
何故朝鮮人と日本人が手を結んだかについては紙面の都合上触れないが、ともかくも金冠塚は新羅の栄華を伝える遺跡として脚光を浴び、慶州は国際的に有名になった。現在慶州は韓国を代表する観光都市として、日本の京都・奈良のように修学旅行の定番コースになっているが、その起点はこの1921年の金冠塚発見に求めることができる。
金冠塚の宝物は総督府の植民統治にも大いに活用されたのだが、その一方で民族の偉大な歴史を示す証拠として朝鮮人の民族意識を鼓舞した。
このような話は初めてなのか、学生たちは熱心に耳を傾けてくれる。千年王朝新羅の首都・慶州は古代遺跡の宝庫であり、人々の関心は慶州の古代に集中する。
しかし、慶州にはその後高麗王朝、朝鮮王朝、近現代に至るもう一つの千年の歳月が流れている。古代新羅の歴史のみを切り取っては歴史の醍醐味は理解できない。特に近代は考古学や近代観光などが誕生し今日と地続きであるという点で重要な時期だ。古代新羅だけではない慶州の歴史の重層性が広く認知されること、それが私の研究の目的でもあり願いでもある。
(2019.11.15 民団新聞)