掲載日 : [2019-11-27] 照会数 : 6972
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<33>六郷渡し/東海寺(江戸)
[ たくさんの船を川に並べ、その上に板を乗せ船橋を作った「六郷渡しの碑」 ] [ 旧東海道を示す石碑 ] [ レリーフ ] [ 通信使が立ち寄った東海寺本堂 ]
特設の船橋で六郷川渡る
朝鮮通信使は、小田原宿から神奈川宿を出て六郷渡しに向かった。
時代は慶長5年(1600年)のこと、徳川家康が六郷川(多摩川の下流部分)に、六郷大橋を架けたのであるが、元禄元年(1688)の大洪水で橋は流されてしまった。幕府は架橋を掛けることをやめ「六郷渡し」が設けられた。
そのため川越し人足の手を借りて渡る方法や渡し船を利用することとなる。しかし大勢の通行のとき、例えば将軍の上洛や朝鮮通信使のようなときには、たくさんの船を川に並べその上に板を乗せ船橋を作ったのである。「六郷渡しの碑」には、そのときの様子がレリーフとして描かれている。
しかし、朝鮮通信使についてもう少し補足すると、「国書」、「三使」の渡り方は行列とは異なっている。
「昼食後、ただちに出発し、三十里にして六郷江(いまの多摩川)にいたる。江の広さは四、五百歩、彩船四隻が艤して待っている。一隻には国書を奉じ、他の三隻には使臣が分乗した。船は宏大ではないが、金彩漆光が照り映える。また諸船(もろふね)が雲の如く集まって、人馬や行李を渡す。」※『海游録』申維翰著享保元年(1791年)より抜粋。
「六郷渡の碑」から多摩川周辺を歩いた。レンズの絞り値を上げて、六郷橋をシルエットにすると時代が下り、今にも行列が渡るような雰囲気となる。橋下の川縁で親子が魚釣りに勤しむ風景は絵になった。ところがふと振り返ると、片側3車線の橋を往来する車、高層マンションがファインダーに入るのが現実である。
私は土手を下り「品川」駅に向かうのであるが、その途中マンションの前に立つ川崎宿で名を馳せた「万年屋跡」の簡素な案内版を見つけ、その向かいの歩道には旧東海道を示す石碑があった。
朝鮮通信使は「夕刻、品川に着き、東海寺玄性寺に館す」と記録されている。
私はJR大井町駅から、バスに乗って「新馬場」駅まで行き、そこから数分で立派な石碑「東海善寺」の前に辿り着いた。高層マンションやビル群が乱立するようなところに東海寺はあった。そばを目黒川が流れていることが、この寺の環境としては救いだった。
藤本巧(写真作家)
(2019.11.27 民団新聞)