掲載日 : [2010-12-01] 照会数 : 5364
北部の民族指導者古堂晩植60周忌 今こそ顕彰のとき
[ 呉敬福さん ]
北韓の暴虐に歴史的断罪を
元民団中央本部事務総長 呉敬福氏語る
「民族の永遠の師 古堂晩植伝記」(古堂記念事業会著、キパラン刊)がソウルでこのほど出版された。解放前後の北部で民族の巨星として輝いた晩植が如何なる存在であったか。
事務総長など民団中央の幹部を歴任し、古堂記念事業会の活動に従事する呉敬福氏(80)は、「今年は6・25韓国戦争勃発から60年、朝鮮労働党結党から65年。北韓独裁の暴虐の歴史を知るためにも、60周忌に際して古堂を改めて顕彰する意義は大きい」と語る。
晩植はキリスト教精神を土台にした民族主義者として知られる。祖国独立と自由民主主義の確立を追求し、日帝の暴政に抗して民族を真の愛国に導き、解放軍として乗り込んできたソ連の圧制に立ち向かい、ついには命を奪われた。
非暴力・無抵抗・不服従の姿勢を貫いたマハトマ・ガンジーとよく比肩された。だが、インドのガンジーとして闘うより、朝鮮の晩植として生きるほうが数倍も苛烈だったと言えるだろう。
北部で最も影響力があり、ソ連軍当局にも一目置かれた晩植は、平安建国準備委員会、人民政治委員会委員長を歴任し、光州学生運動記念日の45年11月3日、朝鮮民主党を結党。民族独立、南北統一、民主主義の3大綱領を掲げて党員を急増させ、3カ月間で北部全ての道・市・郡・面に支部を結成した。
ソ連軍政当局と朝鮮共産党北朝鮮分局の責任者であった金日成にとって最大の脅威であった。「共産支配下の北側同胞を捨てて、独り自由を求め、越南することはできない」。古堂のこの信念は、死に直面しても不変だった。46年1月4日、モスクワ3国外相会議が決定した信託統治に反対を表明、軍政当局に逮捕・軟禁される。
「先生が信託統治に反対し、高麗ホテルに軟禁されたと知ったが、私も反対したため逮捕され、6カ月間、海州教導所に収監されてしまった。釈放後は反動分子として故郷を追われ、先生の詳しい消息を知ることができなかった」。
当時の悔しい思いをこう語る呉敬福氏は、1921年黄海道生まれで、平壌の光成中学21回卒業生だ。「光成講堂で先生が説教をする度に傾聴した。労働者を労わり、自身も質素な韓服で過ごされた。未熟な私たちが毎月のように先生の自宅にお邪魔しても、心から接してくれた。よく勉強しなさい、との言葉一つにも心の底から勇気が湧いた」
呉氏は同志4人と民族の完全独立を目指す秘密結社をつくり、可能な者が東京に留学し、敵国日本の実情を把握したうえで、中国にある臨時政府に合流する計画を立てた。41年に光成中学を卒業した呉氏は42年、渡日留学生となって中央大学に入学した。
しかし、渡日翌年に秘密結社が露見、光成学生事件として呉氏を含む5人全員が検挙された。呉氏は8年の刑を受け平壌刑務所に収監、5カ月後には大田刑務所に移管され、解放直後の8月17日に出獄。1人は拷問の末に獄死していた。
「私たちが獄苦をなめ、獄死までしながら、抗日決死の行動に出たのも、今日の韓国が法統を継いで世界の主要国家となったのも、先生のような愛族的な精神があったからだ。先生の遺志を韓国はもちろん、在日社会でも継承発展させねばならない」
呉氏は、「私たちが北の故郷に帰る日が来るならば、先生が結成した朝鮮民主党の旗印を今一度高く掲げて行くことこそ、3代世襲独裁の下で呻吟する同胞たちを現実から救い、歴史的にも救うことになる」と強調する。
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晩植(1882〜1950年)=平安南道江西の出身。平壌祟実学校でキリスト教に入信、明治大学法学部を卒業した1913年、独立運動家を養成する五山学校の校長に就任して民族教育の先頭に。3・1独立運動(19年)に参加して1年服役。22年に朝鮮物産奨励会を組織して国産品愛用運動を展開。23年、金性洙、宋鎮禹らと研政会を発足させ民立大学期成会を組織。27年、新幹会結成に参画、32年に朝鮮日報社長就任、民族言論の基礎を固めた。解放後、北部で朝鮮民主党を結成、党首に。信託統治に反対して軟禁・収監され、6・25韓国戦争のさなかの10月18日、退却する北韓人民軍により虐殺されたと見られている。
(2010.12.1 民団新聞)