掲載日 : [2021-07-22] 照会数 : 4387
異郷で地域に奉仕、浅川兄弟称え顕彰碑…河正雄さん北杜市に寄贈
[ 除幕式を待つ浅川伯教・巧兄弟顕彰碑 ] [ 河正雄さん ]
【山梨】日本の支配下にあった韓半島で植林緑化の普及に努め、失われようとする朝鮮民芸の研究に貢献した浅川伯教・巧兄弟の顕彰碑ができあがった。今年が巧の生誕130年没後90周年の節目にあたることから在日同胞2世の河正雄さん(82)が自らデザインし、兄弟の生まれ故郷、北杜市に寄贈した。除幕式は今秋以降、市内の「浅川伯教・巧兄弟資料館」前広場で行われる。
碑のデザインは五重塔をイメージした五層。前面に兄弟の顔をデザインしたレリーフと碑銘「露堂堂(ろどうどう)」と記した黒御影版を設置した。
高さ166㌢、幅115㌢、奥行76㌢のブロンズ。下層四段は純白の日本産稲田石の割り肌仕上げ。上層は落ち着いたグレー系の全羅北道産Kー谷城を本磨きにした。
「露堂堂(ろどうどう)」とは正々堂々と生きることの大切さを示す。また、「良いことをすれば良い結果が表れ、悪いことをすれば悪い結果が起こる」という意味も含んだ禅語。
哲学者で後に文部大臣になる安倍能成さんの著書『青丘雑記』の中から「浅川巧さんを惜む」の文中にあった「官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで露堂堂と生き抜いて行った」から採用した。裏面には「感謝をこめて」と刻んだ。
河さんが「関東大震災直後に牧師として来日し、酪農と西洋野菜の栽培促進による開拓支援で『清里の父』と呼ばれたポール・ラッシュ博士が聖壇に祀られているように、浅川兄弟もいつの日にか聖壇に祀られる人物である」と浅川兄弟を偲ぶ会で講演したのは1997年のこと。20数年間温めてきた構想がようやく実現することになった。いまはコロナ収束後の除幕を心待ちにしているという。
河さんは浅川兄弟資料館のオープンに際しては韓国の人間国宝が制作した浅川兄弟ゆかりの白磁や民芸品を寄贈。06年からは北杜市でポール・ラッシュ博士と浅川兄弟の徳を慕い、回顧する「清里銀河塾」を18回開催し、国際親善に貢献してきた。塾生はこれまでに1000人を超え、19年に北杜市市民栄誉賞を受賞した。
◆「露堂堂」を人生の指針に
河さんは1939年、東大阪生まれ。両親は日雇いの人夫だった。後に秋田県に移り、就職に有利だからと県立工業高校に入学。しかし、戸籍謄本の不備からただ一人だけ就職できず。将来を見通せず失意のどん底で悶々としていた高校3年のとき、図書館で出会ったのが安倍能成さんが書いた浅川巧の追悼文だった。巧を知ったのはこの時が初めて。
「『露堂堂』すなわち、いいことをたくさんしなさい、自分が正しいと思う道を堂堂と歩く。この3つの文字がずっと引っかかっていた。こういう生き方から学ぼうと。一つの指針になった。僕にとってバイブルのようなもの」
高校卒業後、昼間働き、夜間にデザインスクールで学んだ。過労がたたり、栄養失調も重なって目を患った。勤め先から自主退社を余儀なくされ、心に大きな痛手を負った。
精神的に不安定だった時、登山客に導かれるまま何気に新宿から中央線に乗車、下車したのが偶然にも浅川兄弟の育った清里だった。ここでポール・ラッシュ博士と出会い、大きな刺激を受ける。
博士は「異邦人」として地域に理解されない寂しさを河さんに訴えたという。河さんは博士に浅川巧の姿を重ね合わせ、どういう境遇にあってもその地域に奉仕するんだという姿に感銘を受け、「おれもそういう生き方をしてみたい」と自らに誓ったと明らかにした。
(2021.07.21 民団新聞)