民団中央本部常任顧問、新韓銀行名誉会長などの要職にあった故李熙健氏は在日同胞社会の発展のみならず、祖国の新しい金融文化創造に多大な貢献をした。斬新な経営戦略は韓日両国において注目を浴びたが、それにとどまらず、88ソウル五輪の在日後援会会長として100億円募金、さらには大阪の祭りとして根付いた四天王寺ワッソの開催など、多方面にわたり確固たる足跡を残した。ソウルでこのほど営まれた追悼式の参列者からは惜しむ声が相次いだ。
金融界に新風起こす
在日の力結集、斬新な経営で
1917年、慶尚北道の慶山に生まれた李熙健氏は、15歳で単身日本に渡り、韓国人の多い大阪・鶴橋で自転車修理などに従事していたという。
大きな転機となったのは、解放後、鶴橋市場が閉鎖に追い込まれた時だ。同胞たちの死活問題であるとして立ち上がり、興奮する商人たちに団結の必要性を説く一方で、連合軍総司令部(GHQ)などと交渉した。
その甲斐あって47年に鶴橋国際商店街連盟を結成、30歳の若さで初代会長に就任した。「大勢が参加して団結すればなんでもできる」。このときに得た教訓がその後の人生のいしずえとなった。
痛恨のきわみ関西興銀破綻
この鶴橋に55年、「韓国人による韓国人のための金融機関」として信用組合大阪興銀を設立。ユニークな経営戦略でリーダーシップを発揮し、日本経済の成長期とも重なり飛躍的に伸ばした。93年に4商銀と合併して関西興銀を設立。信用組合として日本一を達成するなど、在日同胞の経済発展に大きく貢献した。それだけに関西興銀の破綻(2000年)は痛恨の極みだった。
一方、70年の大阪万博では在日韓国人後援会会長を務めたほか、88年ソウル五輪の際には後援会会長として100億円の募金活動に奔走した。90年には、古代韓半島と日本の交流絵巻「四天王寺ワッソ」を開催。地域の祭りとして今日に受け継がれている。
祖国に対する愛情には強烈なものがあった。65年に韓日が国交正常化され、往来が自由になるや、祖国の近代化にぜひ役立ちたいと、74年に社団法人在日韓国人本国投資協会、77年に第一投資金融をそれぞれ設立し、代表を務めた。第一投資の成功が、願望であった「本国における銀行設立」に向けて大きく前進する。
82年、341人の在日同胞が出資し、韓国初の純民間銀行である新韓銀行を設立。代表として日本で蓄積したノウハウを遺憾なく発揮し、社名のとおり韓国金融市場に新風を吹き込んだ。女性部隊「ギャル・ホース」を主軸にした親切サービス、小銭両替用の三輪電動車など、斬新なアイデアと徹底した「顧客第一主義」で「新しい金融文化の創造」を展開した。97年のIMF国際通貨危機の時には逆にチャンスととらえ、構造改革を進めることによって国際競争力を強化した。
2001年に新韓金融持株会社を設立し、韓国を代表する金融グループとなった。神話化した新韓文化のいしずえは、「母国のために貢献したい」という在日同胞の創業精神だ。名誉会長として李熙健氏はだれよりも新韓グループの成長をわが子のように喜び、生涯見守り続けた。
次世代に次のようなメッセージを残している。
1世の故郷を思う心情は並々ならぬものがあった。しかし、3世や4世にそれは通じないであろう。新しい発想が必要だ。みずからが世界のトップ企業をめざし、優れた韓国企業とジョイントしていくというグローバルな視点が大切だ。世界でも有数の韓日両国に基盤を持つ在日同胞の利点を生かしてほしい。
(2011.4.27 民団新聞)