「朴君を囲む会」を立ち上げ「日立闘争」を理論面でリードしてきたひとり、崔勝久さんに闘争の今日的な意義について振りかえってもらった。
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新聞で「ボクは新井か朴か」という採用取り消しを報じる大きな見出しに引き付けられ、彼の住むアパートに会いに行きました。自分はいったい何者で、どのように生きればいいのか模索していた私にとっては、とても他人事とは思えませんでした。
裁判に関わっていた日本の学生たちは基本的に労働問題だと考えていましたが、私は、「同化」されてきた在日韓国人の受けてきた差別事件であり、日立の解雇は民族差別であると強く主張、結果としてその方向で裁判をすることに決まりました。「朴君を囲む会」を立ち上げ、裁判闘争と並行して、日本社会の差別の実態を明らかにしつつ自分の生き方を求める集会を定期的にもつようになりました。
当時、民族教育を受け、朝鮮人として社会にでている在日の文化人からは、本名を使わず、本籍地を偽って現住所を書くような奴に、民族差別だなどと裁判を起こす資格はない、協力もできないと見向きもされませんでした。
日立闘争は、自分の生きている足元から自分自身を問い、社会を問う運動であったと思います。その中から、地域での具体的な差別問題を取り上げ、行政の国籍条項を変更させる運動になっていきました。
私たちの人権は、家族や同胞社会の中だけで実現されるものではなく、自分たちが住む地域社会そのものが豊かになり、地域住民が中心となってよりよい社会にしていくなかで、実現されるのではないでしょうか。
彼との出会い、彼とのどのように生きればいいのかという模索、歩みがなければ、今の私はなかったでしょう。今年定年を迎える朴鐘碩夫妻にはお祝いの言葉よりも、心からの感謝の言葉を捧げたいと思います。
(2011.5.11 民団新聞)