震災から今日でちょうど2カ月。生活の糧を奪われ、家を失った同胞たちも、なんとか生活を再建し、立ち直ろうと懸命の努力を重ねている。復旧、復興まであと何年かかるか、先は見えない。それでも「落ち込んでいる暇などない」「とにかく生きていくしかない」と口をそろえている。ようやく将来に向けた一歩を踏み出そうとしている宮城、岩手、福島の激甚地区で暮らす同胞たちに現状を聞いた。
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宮城
朴尚志さん(54、多賀城市)は産業廃棄物業を行ってる関係から被災後、数日間は自治体のボランティアをした。4月は地元多賀城市の依頼で工場地帯の片付けに追われた。敷地に流されてきた30台ほどの車を片付けたばかりだ。
車2台だけで業務を行っているため、仕事の引き合いはあっても、いまは応じられない状況だ。奉仕であっても、仕事をしているほうが気休めになるという。「落ち込んでる暇などない」。
呉玉順さん(44、名取市)は津波のため、亘理市に新築して6〜7年の自宅が被害を受けた。震災直後からの数日間は避難所での生活が続いたものの、いまは名取市内のアパートに移っている。4月20日からはパート(調理)も始めた。
「いまだになにが現実なのか」と、戸惑うことばかり。近所の人々がばらばらになり、周囲にいた人々の大切さ、普通の生活のありがたさを実感している。「いまは前を向いて進むしかない」。
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岩手
山田町で経営していた焼肉と中華料理の店を津波で流され、築5年の自宅もローンだけ残して火災で失った朴夏博さん(62、盛岡市)。
住居は盛岡に住む兄が朴さん夫妻のためにとマンションの一室を提供してくれ、避難所暮らしを免れることができた。民団からは義捐金と食糧、小さなテレビまで届き、元気づけられたという。
生まれ育った山田町の住民からは「いい物件があるから、こっちでもう一度店をやらないか」と声をかけられ、仮契約までこぎつけることができた。「いろんな人の支援があって、やっと一歩前に踏み出せそう」。
被災し、自宅を失った咸民さん(57、釜石市)はいま、釜石市内の妹さん宅に身を寄せている。経営する焼肉店2店舗のうち海沿いの店が流されたものの、妹さんのいる高台だけは被災を免れた。
いまは、一日も早い漁の再開で、釜石の街全体がかつてのように活気づくのを祈っている。その日までは頑張りたいと話す。借金は残っているが、失った店の再開をあきらめてはいない。
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福島
張賢淑さん(51・双葉郡浪江町)は自宅が原発から8㌔メートルの距離。ゴルフ場でキャディをしていた。津波が引いたあと、車で避難先を探し求め、ようやく、夜中に伊達郡川俣町にある小学校の避難所に。しかし、中には入れず、車中で夜明けを待っていたところ、再び避難勧告。結局、福山市のあづま総合体育館に避難した。
最近、かつて仕事先だったゴルフ場(相馬市)から「少しずつだが、6月から営業を再開するので来てくれないか?」と連絡を受けたばかり。週3回で給料も半減という条件だったが、復帰を即答した。さっそく相馬市内の借り上げアパートを申請した。「自分の住む家、働く場が何よりも生きていく希望です」。
陳愛子さん(58)と母の辛永淑さん(72)は原発から8㌔メートル圏内の双葉郡浪江町で遊技店を経営していた。自宅も兼ねている。震災時、一晩中、避難所を転々としながら郡山市の公民館にようやくたどり着いた。人数超過のうえ愛犬がいたため、どこも受け入れてくれなかったからだ。
開いていた不動産屋に相談し、「ペット可」の部屋を探した。敷金・礼金なしの日割りで家賃を納めているが、生活費はこれまでの蓄えを切り崩さざるを得ない。いわき市に借り上げ住宅を申請している。やはり、元の家に戻りたいという。
「たとえ、店の営業ができなくても、父と母が血のにじむ思いで築き上げてきた家ですから」。
禹文吉さん(58、双葉郡大熊町)の住居は福島第一原発から3・7㌔メートル。現在、郡山市の賃貸共同住宅に夫人と避難中。
パチンコ店8店舗のうち原発から10㌔メートル圏内に2店舗、20〜30㌔メートル圏内に2店舗。いずれも営業どころか、従業員も県外避難した。しかも店舗内の金庫も盗難にあい、約230人いた社員と従業員の半数近くを解雇せざるを得なかった。
市役所から「街に活気を戻すためにもぜひ」と言われ、圏外4店舗のみ営業を再開したばかり。
「精神的にも追い詰められているが、とにかく生きていくしかない」。
(2011.5.11 民団新聞)