解放直後の韓半島南がスイカ(皮は白いが中は赤い)、北がリンゴ(皮は赤いが、中は白い)と揶揄された。在日のある知識人は、その北から共産主義に反発する民族主義者や保守的傾向の人士が大量に越南し、在日同胞社会からはかなりの数の共産主義者が韓国に帰ったことで、韓国内の左右葛藤を必要以上に激化させ、怨嗟の連鎖を生む温床をつくったと指摘する。
韓国国民はその状況に無策だったのか。そうではないらしい。民団中央本部が開催した「特別講演会‐5・17事態から5年」で講師の李度 さんは、「建国後、政府の努力で左翼の多くが転向した。だが、6・25韓国戦争で再び左翼に転じ、北軍の先兵となって良民のテロに走った」と語った。
政府樹立から間がない1948年12月、ソウルYMCA講堂で開かれた社会党創党大会に李承晩大統領が出席、「共産党と闘う国には、社会党が必ず必要だ。右派一色の中で社会党が生まれる。しかも趙素昴先生が党首になるという。嬉しい限りだ」と祝辞を述べている。
趙党首は解放前、上海の大韓民国臨時政府の要人として知られ、国際社会党大会にも参加したことがある。50年5月の第2代国会議員選挙で当選を果たした。本来であれば、大韓民国の正統性を認めたうえで、暴力革命とは一線を画し、平等・分配・福祉を旗印に保守政党と善意の競争を展開する社会民主主義政党が存続し得た。韓国の理念葛藤も大分様相が異なっていただろう。
しかし、趙党首は6・25時、北に連行され58年に没した。民族相残のこの戦争は一方で、健全な社会民主主義政党の芽さえ摘んだのだ。(C)
(2011.5.25 民団新聞)