掲載日 : [2019-08-14] 照会数 : 11017
<北送60年>離散家族としてのわが家…「精神の自由」まで奪う北韓「帰国事業」誤りと認めよ!
[ 「帰国船」が出港する新潟港の岸壁には別れのテープが乱舞した ]
離散家族としてのわが家
韓国現代史研究家 金一男
「帰国運動」にからむ、筆者個人の家庭事情について述べたい。19歳の父は、すでに日本に来ていた姉を頼って玄界灘を渡った。1937年のことである。翌年、一時帰国していた父と全羅南道和順で挙式した母もまた玄界灘を渡った。
古鉄商を営んで石部金吉とあだ名された勤勉な父は、若くして幾ばくかの財をなしたが、作業中の事故による古キズが持病となり、半生、入退院を繰り返した。
1950年に勃発した6・25韓国戦争が休戦する頃、混乱を逃れて母の弟(英一)が玄界灘を渡って来た。続いて母の義理の弟(英圭)も来た。数年後、父が病に倒れて仕事をたたんだため、英一は東京に仕事場を求めて家を出た。しかし、間もなく道路の下水管工事の事故で死んでしまった。
この事故をきっかけに、不安定な在留資格に不安を感じていた英圭は、日本での暮らしを見込みのないものとあきらめてしまったようだ。そして、韓国に残してきた若い妻を呼んで、ともに北韓にわたった。1960年代の初めである。
叔父の英圭が北に渡るにあたっては、ある総連活動家の存在が重要な意味を持っていた。少年の私の目から見ても誠実な印象を与えたその活動家は、毎日のように我が家に来て、英圭おじさんを説得していた。
後年、その活動家も「責任を感じて」北に渡ったが、彼の親族の話では、間もなく音信不通になったという。彼はいわゆる「熱誠的」活動家で、清貧な生活の中にも「社会主義祖国」の未来を信じようとしていた人物だったようだ。
叔父の手紙に愕然
叔父の英圭が北に行ってからの母は大変だった。毎月の様に大きな段ボールに衣類やら生活用品やらを詰め込んで送っていた。また、北に渡る予定の人を訪ねては、いくばくかの現金を平安北道の炭鉱にいる叔父に渡してくれるよう頼んで回っていた。実際に渡すことができたかどうかはわからない。
初めての段ボール箱を北に送ってから間もなくのこと、叔父の英圭から手紙がとどいた。
せくように開封した母の顔は、途中から青ざめた。母と叔父との間に何か取り決めがあったようだった。それがどんなものだったかを母は教えてくれなかったが、ある言葉が書かれていれば、北の実情は宣伝とはちがうこと、あとから来る予定の人は「帰国」しない方がよい、ということになっていたという。手紙は「検閲」が予想されたからだ。
晴れて母国の土を踏む
1989年に母とともに韓国全羅南道の田舎に行く機会があった。親族が集まった場所では、誰も英圭・叔父の話は出なかった。母によれば、親族はみな叔父のことを知っていて、あえて話題にしないのだという。
このころの韓国は、「4・19革命」「5・16軍事クーデター」「5・18光州事態」とさまざまな曲折を経ながらも経済的な「離陸」をすでに終えて、いたるところ活気にあふれていた。1964年に19歳で初めて「母国」を訪問し、当時のすさまじい貧しさを知っている私にとって、その発展ぶりは感慨無量だった。
帰りの列車の中で、窓から空を眺めていた母は、ため息とともに叔父の名を呼んだ。それから間もなく、叔父が病死したとの知らせが北から届いた。母は、「かわいそうに、葬式にも行けないじゃないか」とポツリと言った。
原則と常識に戻れ
北韓「帰国」事業は、「人道主義」事業として開始された。だとすれば、それは「人道主義」において進められ、「人道主義」に終えられなければならなかったはずだ。
だが、この事業は終始一貫、「人道主義」に背いて進められ、そして終えた。その第一の原因は、「帰国者」たちの「基本的人権」が無視されたからである。「平等権」とともに「基本的人権」の土台をなす「自由権」、とりわけ「身体の自由」に含まれる「移動の自由」が失われてしまったからである。
「帰国者」たちに、自分たちの選択を変更する機会が与えられることはなかった。帰国船に乗った瞬間から外部と遮断され、既定の分野に「配属」されて、「基本的人権」、「移動の自由」は奪われてしまったのだ。
北韓にかかわる問題を考える場合、私たちは、ともすれば「ああいう国だから」と妥協的な認識に傾きやすい。だが、それは間違っている。個人が持つ「移動の自由」を含む「身体の自由」を奪うことは、いかなる場合にも許されない。「移動の自由」を奪うことは、結局、「精神の自由」を奪うことになるからだ。
「移動の自由」を奪う国家権力は、国民のための権力ではない。そのような国家権力は、少数の支配的な人々や「指導者」の利益だけを守るための権力である。北韓「帰国事業」の歴史を考える場合も、原理・原則に立ち、常識に乗っ取って考えることが正しい。「帰国事業」の進め方は間違っていたのだ。
「帰国」同胞たちには、自分たちの選択を改めて考え直す機会が与えられるべきだった。少なくとも、親族のいる日本への一時渡航の機会は与えられるべきだった。
そのような「機会」は、「移動の自由」によって初めて保障される。だが北韓政府は、そのような権利を「帰国」同胞に与えなかったし、いまも与えていない。
いやしくも在日同胞や民族の運命について考える者なら、「基本的人権」という普遍的な原理・原則、人間としての基本の「常識」に立って語る義務がある。
朝総連幹部には、9万3000人の「帰国」同胞の運命についてきちんと語る責任があるはずだ。
(2019.08.15 民団新聞)