「地上の楽園」デマ振りまき…帰還9万人、民団のみ抵抗
「祖国は地上の楽園」との北韓当局と朝総連の虚偽宣伝および日本政府と政党の積極的協力と日本マスコミあげての北韓体制賛美キャンペーンのもとで推進された「北送」(1959年12月~84年)開始から60年になる。この「事業」で7000人あまりの日本人妻と日本国籍子弟を含む、9万3340人の在日同胞が北韓に渡った。彼らを待ち受けていたのは日本でよりもはるかに厳しい生活であった。
北韓の身分体制の最下層に置かれ、日本との往来も禁じられた。長年にわたる差別・抑圧と慢性的な食糧不足という過酷な状況に絶えられず、命がけで脱北した元北送同胞家族の一部が日本に戻ってきている。
「北送」に全力をあげて取り組み「幻想」を振りまいてきた朝総連中央は、自らの責任を否定し、いまだに「オボイ(親)首領様(金日成)」の温かい配慮、至上の同胞愛から実現したと、賛美してやまない。
北韓の計画通り
北送事業について、朝総連中央は「59年12月14日、第一次帰国船が新潟港を出港、在日同胞が夢にまで見た祖国への帰国が実現した」、「帰国運動は共和国側から提起されたわけでもなく同胞の自主的要求だった」としている。
朝総連の機関紙「朝鮮新報」04年1月20日号「総連の歩み④」などによると、「帰国運動の本格的な始まりは、58年8月11日に行われた総連川崎支部中留分会の集いで集団帰国の要望を託した金日成主席あての手紙を採択したことだ。そして、13日の祖国解放13周年記念中央大会で手紙の送付が決まった。金日成主席は共和国創建10周年記念慶祝大会で在日朝鮮人の帰国を『熱烈に歓迎します』と表明、『民族的義務である』とまで述べた。総連は帰国を希望する同胞たちの要求をくみ、この運動を大衆運動として展開した」と、あくまでも同胞の要求に基づくものであると主張している。
だが、手紙の採択は、北韓当局の指示に基づき、「帰国運動」を扇動するため朝総連中央があらかじめ準備していた。中留分会「集団帰国決議」の約1カ月前の7月14日、金日成は面会した北韓駐在のソ連臨時大使に「我々は、日本在住の全同胞が自ら祖国に帰ってくるよう勧めており、この問題について日本政府と合意に達したいと希望している。この点について我々は近く声明を出す」と述べ、「共和国に帰ってきた、すべての朝鮮人は、住居と仕事、すべての政治的・経済的権利を得、彼らの子どもたちは共和国の学校、大学で教育を受けるようになることを強調するつもりだ」と明らかにしている(菊池嘉晃「北朝鮮帰還事業の爪痕」<「中央公論」06年11月号>より)。
民団は激しく抵抗し帰国者を乗せた列車を止めようとレールにすわり込んだ
猛烈な宣伝・扇動
こうした北韓当局のシナリオに基づき、朝総連は北韓を「地上の楽園」であり、「医療費はすべて無料。家や希望する仕事もあり、楽園の暮らしが保証される」との喧伝を繰り返し、「新国家建設のために帰国して祖国に貢献しよう」などと、組織をあげて「帰国」を煽った。
「北送」開始前に作成された朝総連中央帰国対策委員会「帰国者に対する実務推進要綱」(59年4月)は「帰国者の一切の財産を祖国に運ぶために」と題して、次のような指示を傘下組織や帰還者らに与えている。
「携帯物品に対して帰国者は祖国の富強な建設に供給することが自己の幸福を享くのと関連して(…略…)自己の所有物をすべて祖国へ移動すると同時に、余裕がある同胞は、祖国建設に必要な物品を少しでも購入して持って行くようにする必要がある」。物品の購入は総連の指導に基づくようにと指示している。
民団の北送反対中央民衆大会
最下層の扱い…不満もらせば収容所送り
当時、北韓を「千里馬の国」「地上楽園」と宣伝し、「帰国」すれば「完全就職」「生活保障」「就学希望」が保証されると謳われた。だが実際は、1953年の「韓国戦争」休戦からわずか4年、在日同胞は「底辺労働力」として期待されていただけだった。決して「祝福された帰国」ではなかったのだ。
「帰国者」は悲惨な運命をたどった。「地上の楽園」と喧伝された北韓の生活水準は極度に低くごく一部の総連幹部や有力幹部商工人家族などを除き、大部分は山間僻地の炭鉱や農村・工場地帯に配置され、掘っ立て小屋に押し込まれた。
「帰国」した在日同胞は北の「出身成分」において最下層の「動揺階層」として扱われた。すでに「帰国」直後から、個人崇拝の慣習や上意下達式の文化に適応できない一部同胞が「強制労働収容所」または「政治犯収容所」に送られている。
「夢」やぶれ
しかも日常的な監視対象に位置づけられた。一般の北韓住民からは「帰胞(キポ)」などと呼ばれ差別されるなど、過酷な状況に置かれた。「日本に帰りたい」と言えば、政治犯用の精神科病院へ強制入院させられ、少しでも不満を口にしようものなら政治犯収容所に送られるか抹殺された。
ごく少数の朝総連幹部子弟を除けば、ほとんどの同胞が自分たちの「夢」をかなえることができないまま、「帰国」後、北韓から一歩も外へ出られなくなった。これは北の同胞全体についてもいえるが、国外どころか、国内での移動も許可なしにはできなくなったのだ。
ことに日本人妻と日本国籍子弟の場合、将来において日本への一時帰国すらできなくなるとは考えてもいなかった。
現在でもそうだが、「帰国同胞」は、日本に住む親族にとっては「人質」であった。北に親族を送った同胞は、その安否を気づかい、子弟を「朝鮮学校」に通わせ、「朝鮮総連」の集会や資金集めに動員されている。指示にそむけば、総連専従幹部の「ほのめかし」を通じて、「帰国」した親族に害が及ぶことが分かっているからだ。
ちなみに、10万人に近い大量の臨時労働力を即戦力として確保したにもかかわらず、北における7カ年計画(61~67年)は失敗に終わっている。根本的なところで間違っていたのだ。
「移動の自由」さえなく…耐えきれず脱北も
北送開始の59年末から61年までに合計7万4779人が北送船に乗った。だが、「地上の楽園」ではなく悲惨な境遇を示唆する手紙が、日本にいる身内・親類に届きはじめ、62年には年間約3500人まで激減。その後も減少し続け、67年11月でいったん打ち切られた(155回配船、計8万8611人)。
しかし、朝総連は「地上の楽園」ではないこと、しかも再び日本に戻ってくることはできないことを知りながら、北韓の指示に従い、帰還協定延長運動を展開し、71年5月から84年まで北送事業を継続させ、同胞を送り続けた。
朝総連では「一時中断したが、71年に再開した。また65年、日本再入国の権利を勝ち取り、祖国往来の道も開かれ、79年からは、定期的な祖国訪問が実現している」と、あたかも在日同胞にとり大きな成果であるかのように宣伝している。
79年8月から始まった「在日同胞短期祖国訪問団事業」では大型旅客船が新潟を往来するようになり、家族や親族訪問の道が開かれたとしている。だが、日本からの一方通行で、北韓当局は、「帰国同胞」の日本への自由往来はもとより、一時帰省や墓参りすら、認めていない。
乗船を前に新潟の待機宿泊施設の庭で遊ぶ帰国者の子どもたち
「人質」として
そうしたなかでも、裕福な商工人親族が日本にいる者や総連大幹部の家族らは、巨額な寄付・補償によって単独で、あるいは訪日代表団のメンバーの一員として密かに帰省している。この場合も、家族ぐるみの帰省は許していない。「帰国同胞」を、総連の活動から離脱させないための「人質」にするとともに、在日家族・縁者からの巨額な送金や援助を促して利用するためだ。
総連中央では「祖国への自由往来は在日朝鮮人の権利である」と日本政府に要求してきた。しかし、肝心な「帰国同胞」家族の生死・住所の確認と在日家族・親戚との自由な再会・相互訪問の実現については、北韓当局に対して要求せず、口をつぐんでいる。
決死の覚悟で北韓を脱出し、第3国を経由してようやくの思いで日本にたどり着いた元在日北送同胞とその家族らは約200人にのぼる。
その構成は、北送同胞当事者(日本生まれの同胞・日本人妻)より、その子息(北韓生まれ)らの数が多い。朝総連中央はこのような「脱北在日同胞」らに謝罪して支援の手を差し伸べるどころか、「裏切り者」「犯罪者」「脱落者」視して、かかわることをいっさい拒んでいる。
人道的立場で援助…民団支援センター発足
06年6月に日本国会で「北朝鮮人権侵害対処法(拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律)」が成立した。同法には「政府は、脱北者の保護及び支援に関し、施策を講ずるよう努めるものとする」と謳っているが充分に機能していない。
これ以前には、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」(94年設立=山田文明代表)や「北朝鮮難民救援基金」(98年設立=加藤博代表)などのNGO(非政府組織)が脱北者の支援を展開し始めた。
民団の支援センター発足記者会見。右は呂健二代表、左のマスク姿は脱北者(2003年)
民団では03年6月3日に、命からがら北韓を脱出し、第3国を経由してようやくの思いで日本にたどり着いた元在日北送同胞らの日本定着に向け、人道的な立場から援助するための「脱北者支援民団センター」(代表=呂健二民団中央本部副団長=当時)を設立した。
同じ在日の歴史を刻んだ同胞として、脱北同胞の苦境を座視できないとの自然な情愛と純粋な人道的立場から、彼らの日本定着に向け支援を始めた。
支援対象者は、当初の約50人から、この16年間で4倍の約200人になった。
支援センターでは設立当初から、日本に帰還する元在日の脱北同胞が増加するものと予測し、支援活動の継続および強化のため、募金などの協力を呼びかけてきた。同時に、日本政府には制度的な支援の必要性を訴えてきた。
多くの同胞の共感を得て、脱北者を支えようとする輪も広がり、募金も民団の各級組織幹部と団員をはじめ、在日同胞経済人や日本人有志からも誠金が寄せられた。
支援センターでは、日本政府や脱北者支援のNGOなどを通じて連絡が入ると、担当者が空港に出迎え、定着支援金として1人あたり10万円を支給してきた。そして、就業斡旋、住宅斡旋、日本語学校と韓国語のできる医師の斡旋、健康診断などの支援と個別相談など、定着に必要な支援を民団の地方本部・支部および団員有志らの協力を得て実施している。
また、「脱北者交流会」を関東と関西地区で毎年開催し、支援に関わる「北朝鮮難民救済基金」、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」など、日本のNGO関係者、民団関係者や医師らも交えて交流を深めている。
朝総連中央は、このような民団の「脱北者支援センター」の活動を非難して、その解体まで画策してきた。
民団は、北送が開始した当時、組織をあげて強く反対し、新潟に向かう「帰国列車」を実力で一時停止させるなど阻止運動を展開した。その後も朝総連に北送同胞の生死確認や日本への帰還などを呼びかけた。
民団中央本部の呂健二団長は昨年の光復節記念辞を通じて朝総連に対し、「北送同胞の生死確認と自由往来、脱北者への人道的な支援を」と呼びかけたが、朝総連は拒否するばかりか、「過去の対決観念に執着したあまりにも偏狭で時代錯誤的なくびきにとらわれているようにみえる」(2018年8月30日、朝鮮新報)と非難した。
こうした朝総連の対応を批判する多くの同胞の共感を得て支援センターの役割はますます大きくなっている。
(2019.08.15 民団新聞)