掲載日 : [2019-12-14] 照会数 : 6518
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<35>(北千住、草加、粕壁)
[ 旧日光街道を示すアーケード(上)と「千住宿本陣跡」の石碑 ] [ 田村荒物店(粕壁) ] [ 百代橋と草加松並木 ]
街かどにひっそり「千住宿本陣跡」
朝鮮通信使は、千住宿本陣で宿泊している。「本陣」とは、江戸時代の街道宿駅であり大名、公家、旗本たち身分の高い人たちの公的な旅館であった。一般者が泊まることは許されず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。ということを辞書から知った。
家康の日光東照宮社鎮座への初宿であった千住は、日光との関わりが深く重要な地点である。
北千住駅前商店街の大壇幕「宿場町通り」の真下に「100円ショップ」があり、その店の商品に紛れ込むように「千住宿本陣跡」の石碑があるではないか!私はお店に黙って、その周りを少し整頓してからシャッターを切ることにした。時代の移り変わりは止むを得ないが、私は心なしか感傷的な気分になっていた。
朝鮮通信使が江戸から日光まで向かったのは、寛永13年(1636年)、寛永20年(1643年)、そして明暦元年(1655年)の3回だけである。
東武伊勢崎線「草加」駅前の喫茶店で、今日の取材コースを検証したあと、日光街道を歩いた。草加小学校付近に草加宿・清水本陣跡があり、綾瀬川辺りで立派な太鼓形歩道橋「百代橋」が目に飛び込んできた。
綾瀬川沿いに松並木(草加6丁目辺りから旭町まで)が続く。区間でいうと約1・5㌔メートル。朝鮮通信使は、この草加荒瀬川沿いで休息している。
江戸幕府は、街道に並木を植えることで、旅人への真夏の配慮として木陰を提供。それから真冬には荒れる風や吹雪から守った。草加の街道は松であるが、箱根は杉並木だった。それは、その土地に繁殖する樹木が選ばれたからである。
朝鮮通信使は越ヶ谷宿で昼食をとり、粕壁(春日部)で宿泊した。
幕府から宿駅業務(問屋場、本陣、脇本陣など)を行うことを許された粕壁宿。私は春日部駅から日光街道を通り古利根川に向かう。八坂神社を境として左折すると「かすかべ大通り」が普門院まで延びている。
お盆の季節だったので、商店のシャッターは下ろされ人の往来が少ない淋しい時期に春日部に来てしまった。しかし尋ねる人がいなくても、土蔵づくりの家並みが時々目に入る。
東屋田村本店前には「道しるべ」が、米や麦などの集積場になった田村荒物店など、歴史を物語る風景がある。それから「日光道中粕壁宿」に関する道標が、約1・1㌔メートル区間に8カ所もあった。人との対話のない取材ではあったが、道標の説明文と景観に誘導されながらの粕壁宿探訪も楽しかった。
藤本巧(写真作家)
(2019.12.13 民団新聞)