掲載日 : [2010-11-10] 照会数 : 6212
弱者擁護の姿共感の輪 各地民団も自主上映「弁護士布施辰治」
[ 映画の1シーン。中央が布施辰治
]
足跡たどり生涯描く
在日のため解放後も尽力
差別と迫害に苦しむ弱者の側に立つ弁護士として、植民地時代から解放後の混乱期まで、最も苦しい時期の朝鮮人を助け、頼りにされてきた布施辰治(1880〜1953年)の生涯を描いたドキュメンタリー映画「弁護士布施辰治」(池田博穂監督・同製作委員会)。7月からの一般上映に続いて、各地民団でも自主上映会を相次いで実施する。「世の中に一人だって見殺しにされていい人はいない」という布施の信念は改めて、多くの人たちの共感を呼んでいる。
死すべくんば民衆のために
布施辰治の生涯はまさに、「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」を貫いた軌跡だった。
日本が韓国強制併合を断行した翌1911年、布施は「朝鮮独立運動に敬意を表す」との一文を発表し、検察の追及を受けた。この姿勢は終生変わらなかった。
朝鮮人に対する弁護活動は、1919年に始まった。日本、中国、そして朝鮮全土に広がった3・1独立運動の火付け役となった在東京留学生による2・8独立宣言宣布で、起訴された9人の弁護に無報酬で参加したのがそれだ。
法廷の内外で独立運動支援
二審から弁護に加わった布施は、「朝鮮留学生たちの朝鮮独立運動は、正当なものである。今やアメリカのウイルソン大統領の提唱する『民族自決』が、世界に広まっているこの時、もし日本の裁判官がこれを内乱陰謀罪などの重罪に処すなら、日本は、それこそ世界の笑いものになる」と弁じた。
これは、2・8独立宣言の署名者11人の一人で、後日、東亜日報社長となった白寛洙が回顧録に記している。
布施と朝鮮人の信頼関係は以来、揺るぎないものになっていく。布施は1923年から27年までに4回、朝鮮に渡り、義烈団員の弁護、宮三面事件の調査、朝鮮共産党事件の弁護に立ち、さらに各地で講演活動を行っている。
日本国内では、関東大震災下の朝鮮人虐殺事件の真相究明のために、命を張って国家権力に立ち向かった。また、1926年に朴烈、金子文子が大逆罪で起訴された事件でも、大審院特別法廷で弁舌をふるった。
映画は彼の足跡をたどりながら、韓国では強制併合に反対した当時の演説風景をソウルの天道教会で再現し、全羅南道羅州では朝鮮総督府の土地収奪に抗議して返還を求める農民から、聞き取りするシーンなども収めた。
布施の活動は、在日朝鮮人に対する官憲の干渉問題、差別問題などへの糾弾・抗議に及び、日常を生き抜くための支援にあたってきた。
草創期の民団深い関わりも
だが、草創期の民団とも深い関わりがあったことはあまり知られていない。
1947年2月28日付の「民團新聞」に布施は、「三・一運動の追悼」と題して寄稿している。ここで彼は、朝鮮独立の喜びと先覚者の偉大な犠牲を偲びながら、「三・一運動の犠牲が輝かしい勝利の記念日として三千萬朝鮮民族から追憶されることはほんとうにうれしい正義の勝利だと思う」と結んでいる。
布施は解放後も、在日同胞関連の弁護を数多く行った。トルストイに影響を受け、人道主義に心酔し、「弁護士を前進させ、社会運動の一兵卒となる」(自己革命の告白)と宣言、弾圧と闘う弁護士活動を終生貫いた。「われらの弁護士ポシ・ジンチ(布施辰治)」と在日同胞から慕われ、愛されたのも当然だった。
上映申し込み・問い合わせは同製作委員会(℡03・5840・9361)。
(2011.11.10 民団新聞)