掲載日 : [2010-11-17] 照会数 : 6219
サラムサラン<38> ハルモニの縁、再び
可愛い2人のお嬢ちゃんとともに、その女性は私の前に腰かけた。きちんと会うのは初めてなのだが、久しぶりに再会する身内のような懐かしさを覚えてならなかった。 この連載の3回目に、私は30年前、北九州で世話になった焼肉屋のハルモニの思い出を書いた。深夜に店を訪ねては、物静かなハルモニから、日本に渡ってきて以来の身の上話を伺い、人として多くのことを教わった。 記事が出て数カ月して、一人の女性から編集部に電話が入った。偶然にも記事を見て、私の連絡先を尋ねてきたのだった。私は店の名前もハルモニの名前も記事では伏せていたのだが、綴られた描写から、自分の祖母に違いないと確信したという。女性は、鄭潤玉さんと名乗った。
店は路地裏の小さな家だった。店の2階に家族が暮らすことは気づいていたが、どのような面々が寝起きしているのか、その頃はよく知らなかった。潤玉さんは4人兄弟の三女で、当時はまだ学校にあがる前だったという。兄弟の中でも、特にお婆ちゃん子だった。
私が北九州を離れて数年後にハルモニは亡くなった。葬儀の際に韓国人僧侶の言葉が理解できず、その悔しさがきっかけとなり、小学生の潤玉さんは民族の言葉を学び始めた。学習は進み、今では日本人に韓国語を教え、日本駐在の韓国人に日本語を教えて働いている。
電話やメール交換の後、彼女の住む福岡を訪ねて会った。現れたのは、美しいヤング・ママさんだった。ハルモニの思い出を語って、潤玉さんは涙を流した。私も目が潤んだ。私が深夜の食堂でハルモニの話に胸を熱くしていた時、幼い潤玉さんは2階で小さな胸に夢を紡いでいたのである。
ハルモニは亡くなった。私の青春もとうに過ぎた。小さな店も、もはやない。しかし、人の縁が世代を超えて生きていたことに、私は胸打たれた。生きるということは何であるか、考えさせられもした。脈々として続く大河のような命の流れを感じてならなかった。 私はこの「妹」のような女性の幸福を願わずにはいられない。潤玉さんは日本人の男性と結婚し、本名で暮らしている。そんな消息も、うんうんと肯きながら聞くことになる。家族にも似た感情が私の胸を満たした。
しばらくして気がついた。この感情は、共生の原点なのだ。その人が元気に頑張っていることが、自分の生を支える。その人の幸福が、自分の幸福につながる。かつてハルモニに多くを教わった。30年の時を経て、同じ縁に引かれて人の道を学ぶ。人生は奥深く、妙味に富んでいる。
多胡 吉郎
(2010.11.17 民団新聞)