事業壊滅も団員の安否気遣う…被災同胞「民団の激励、うれしい」
激甚被災地区の岩手、宮城、茨城の民団地方本部は、什器備品や書類が散乱した程度で、会館自体に大きな損傷はなかったものの、電気・水道・ガスの供給が絶たれ、通信網の寸断とあいまって一時は機能不全に陥った。
だが、体制を立て直して翌12日、民団中央対策本部の指示のもとに現地対策本部を立ち上げ、中央本部と連携して団員たちの安否確認に着手した。交通・通信網が破壊されない大震災はない。何とか助けに行きたいのに、何より安否を確認したいのに、焦りが焦りを呼ぶ繰り返しだ。
それでも、安否確認は進み被災者救援の体制が整い始めた。だが、地盤沈下によって会館に大きなダメージを受けた福島本部は、余震のたびに屋外退避せねばならないうえに原発問題もあって、安否確認もままならない状態だ。
激震、その時、宮城韓国会館の6階では参加者約80人の文化講演会が開かれていた。立つことはもちろん、まともに座っていることもできない揺れの激しさに、場内はパニックとなった。
民団宮城本部の李根団長や金恵美子事務局長、講演会を主催した婦人会本部の李京子会長らが冷静に誘導し、高齢者の比率が高いにもかかわらず、非常階段を使って全員が退避できた(その後、全員無事に帰宅できたことが確認された)。
関係者がひと息ついた頃、気仙沼市、南三陸町、塩釜市、多賀城市、仙台市若林区、名取市などの太平洋沿岸を大津波が襲っていた。この一帯には高齢者中心に団員75世帯が住んでいる。
本部事務所は散乱している上に、停電も重なって執務不能の状態。幹部間の安否確認と事務所整理を経て、役職員が総出で団員宅に電話を入れ始めたのが13日になってからだ。
しかし、電話は固定も携帯もつながらない。訪問して直接確認しようにも足がない。ガソリンがなくて車を動かせないのだ。ガソリンスタンドは3㎞や4㎞がざらの長蛇の列をつくっており、しかも1回に付き10㍑しか買うことができない。これは仙台市内に限らず、被災地やその近隣のどこでも見られた現象だ。
それでも、激甚地区以外では安否確認が進み、家屋の被害はさほど深刻ではないこと、ほとんど全員が無事であることが確認された。だが、最も心配な激甚地区はどうなっているのか。気は焦っても、接近することすら容易ではない。
李純午副団長は中古車販売業を営んでおり、100台ほどの在庫がある。その一台一台からわずかに残っているガソリンを抜き取っては、安否確認のため動いてきた。
そのおかげで、韓在銀、林三鎬両副団長ら、民団中央対策本部の先遣隊を案内して激甚被災地に入ることができた。しかし、14日でそのガソリンも尽きたという。宮城の激甚被災地の団員75世帯中、15日現在で無事が確認されたのは25世帯に過ぎない。
その激甚被災地の一つ多賀城・塩釜地区の団員・朴尚志さんは、中央と宮城の対策本部から差し入れられたインスタント麺やミネラルウォーターなどを受け取りながら語った。
「目の前に津波のしぶきが迫った。立体駐車場に必死に駆け上がって助かった。自分のスクラップ業の施設は壊滅状態だ。この地区には団員40世帯、帰化者や新渡日者30世帯がいる。近隣の団員たちは安否を確認し合っているが、思うようにいかない」
朴さんはそう言って、「こんな危険な場所に、中央や県本部の役員がわざわざ来てくれて、励ましてくれて本当に嬉しい」と涙ぐんだ。
母と妹が松島湾沿いの陸前浜田駅近くで焼肉店を営んでいるという崔政義さん(70・東京練馬区)は、何度電話してもつながらず、14日午前10時頃になってやっと母親(90)と妹の無事を確認した。北海道にいる妹が確認し、連絡してくれたのだ。
◆希望捨てず無事を祈る
母親は地震発生時、娘さんが外出中でたまたま1人だったが、近所の助けを得て地震後すぐに高台に避難していたのだ。こうしたケースもあるだけに、宮城対策本部では希望を持ち続けている。
宮城対策本部には15日現在、韓副団長と生活局の陳信之副局長が残り、12日から福島本部に先発隊として乗り込んでいた白秀男生活局主任も合流して、当面は3人で現地対策本部を支援する。
(2011.3.16 民団新聞)