「命あればこそ。ゼロからスタートだ」被災者の声
◆築5年の自宅が全焼
岩手・朴夏博さん(61、焼肉店経営)
地震が起こった時、車を運転中だった。いつもとは違うたて揺れに車がひっくり返りそうな気がしたので、一度、車から降りたほどだ。すぐに店に戻ったが、余震が恐いうえに、津波が来るというので従業員と2人で高台にある自宅に帰った。
地震後30分ほど経っただろうか、まさに津波の急襲だ。山田湾(三陸海岸)全体が波のカーテンとなり、海が見えない。家や車がどんどん流されていく。自宅は大丈夫だと思っていたが、1階が床上浸水となった。近くで「助けて!」と叫ぶ人を救助したり、周囲にガスの臭いがたちこめたため、ガスボンベの栓を閉じたりした。電気や水道が止まったので、高台にある小学校に避難することにした。
自宅にこれ以上の被害はないだろうと思い、着の身着のままで行ったことが、今となっては悔やまれる。山田町の2カ所で火事になり、町全体が灰燼に帰し、自宅も全焼したからだ。新築してわずか5年。ローンも残っており、これで終わりだと失望感に襲われた。
避難所は、初日に100人、2日目200人、3日目300人と満杯になった。1日におにぎり1個でしのいだ。被災者間では、復旧するには最低5年はかかるのではと予測する声が多かった。
2日目に家族とも連絡が取れ、皆が無事でいることを確認できた。4日間で避難所を去り、今は盛岡市内に住む兄の家に身を寄せている。親の代から始まり、私が中華料理店で修業して引き継いだ焼肉店は47年を数える。これからどうしたらいいか、途方に暮れているが、民団からいただいたたくさんの差し入れには感謝している。
◆津波の恐怖まざまざ
宮城・朴尚志さん(56、廃棄物処理業)
揺れが長く、ギーギーと鳴る鉄骨の音に、事務所で恐怖感を募らせていた。天地がひっくり返るのではと思った。
自宅の家族や両親の無事を確認して戻ったら、社員から「津波が来る」と知らされた。まさかと思いながらも社員を帰宅させ、自分も出ようとすると、隣の鉄工所の人から「津波だ」との声。上から見ると、45号線に渋滞していた車を飲み込みながら、水しぶきをあげてドドッと押し寄せて来るではないか。
一目散に反対方向に走り出し、パチンコ店の立体駐車場に駆け上がった。最上階には100人ほどが避難していた。車などが次々と壁や柱に打ち付けられるたびに不安になったが、仲間が大勢いたので心強かった。
幸いにも、津波は最上階まで届かなかった。水が引き始めると、向かいのマンションの人がこちらに避難するように声をかけてくれた。重なった車やがれきの上にロープを渡し、老人や子どもから行かせた。遠くに、腰まで水に浸かりながら歩く人々が見えた。家族に全然連絡が取れないでいたので、「早く確認しなければ」との焦燥感から水の中を歩き始めた。
雪の中。さすがに水の冷たさはこたえた。深みもあり、水中にはさまざまなものが転がっていた。途中、避難車の中に入れてもらいながら暖を取ってはまた歩くことを繰り返し、両親の家にたどり着いたのは翌朝の5時過ぎだった。家族も社員も全員無事だったことがうれしかった。
多賀城駅近くで営んでいた店では、車8台が廃車になり、車検中だったトラック1台がかろうじて残っただけ。フォークリフト3台をはじめ業務用品もほとんど使い物にならない。
災害時、うちの業界は自治体のインフラ整備に協力することになっている。業界からボランティア募集の呼びかけがあったので、24日から1週間、参加することにした。こういう時は、動き回っている方が精神的にもいい。命あっての物種。また働いて食べていければいい。民団から水や食料品の差し入れ、取引先からは車を提供してくれた。周囲の善意に涙が出てくる。
◆遊技店舗4軒を失う
宮城・朴清浩さん(53、遊技業)
石巻市と東松島市にパチンコ店2店ずつ、計4店舗を経営していたが、いずれも津波のため全壊した。地震発生時は石巻の本店にいて、すぐに津波警報が鳴ったため、客を帰した後、戸締まりをして社員も帰した。
自分も車で出たが、渋滞でなかなか進まない。地震後40分経過したころ津波が押し寄せてきたため、周囲はパニック状態に。運良く高台の空いていた駐車場に待機できた。水も食べ物もなく、津波がいつ襲ってくるかという恐怖の中で朝が来るのを待った。
翌日、別の支店に行くと、2階に一般の人も含め30数人が避難していた。皆、行くところがないのでもう1泊させた。他の支店では金庫のカネが盗まれるなど、街の中は無法化していた。
東京から青商のメンバーたちが水や日用品などを持ってきてくれた時はうれしかった。家族や社員に死者が出なかったのが不幸中の幸い。財産をすべて失ったが、ゼロから頑張るつもりだ。
◆長かった地震の3分
福島・高栄玉さん(65、自営業)
その日は監察委員長業務を行うため、民団福島本部にいた。地震の3分間が30分間に感じた。この時の恐怖は忘れられない。職員は皆すぐに階段を下りたが、議長と自分だけが動けず、机などにしばらくしがみついていた。外は殴りつけるような吹雪でひときわ寒さを感じた。交通手段が断たれたため、その夜は団長の家でお世話になった。
翌日、白河の自宅に戻ると、駐車場や家の壁がひび割れし、コンクリート塀が20㍍ほど崩れた。家の中はテレビや水槽、トイレが壊れ、天井に穴があくなど、むちゃくちゃ。ちょうど妻と娘も外出中だったので、ケガをせずにすんだ。高台なので津波の影響はまったくなかったが、外部との連絡ができるようになるまで1週間もかかった。
原発から85㌔離れているが、もし原子炉が爆発することにでもなれば、東京だって危ないのでは。水やカップラーメンなどの差し入れがありがたかった。民団と韓国政府に感謝したい。
(2011.3.25 民団新聞)