大きかった裏方の力…救援ドキュメント3・17
「この人がいなかったら」。物事が動かなかった、難局を打開できなかった。そういうことがよくある。大雪の降りしきる17日の山形で、民団幹部個々人の意志と力、周辺の協力が見事にリンクした。そこにはまた、いくつもの隙間があったが、それは運が埋めてくれた。この日を機に、激甚被災地への救援活動が急展開する。
民団山形本部の会館に17日現在で集積した救援物資は、米30㌔が20袋以上、5㌔パックが30超、野菜各種、バナナ、リンゴなど果物類が30箱ほど、おびただしい数のカップ麺や菓子類のほか、毛布や布団、石鹸や女性・乳幼児用品まで、把握不能なほどの品目と量だった。灯油も20㍑容器で5個はあった。
中央対策本部や近隣の民団本部から届けられた物資だ。農作物のほとんどは民団山形の朱帝圭事務局長が県内を走り回って集めた。県内には韓国から農家に嫁いだ人が多く、彼女たちは「ガソリンが入ったらいつでも応援に行く。これを持ってって」と、自ら提供してくれた。
民団山形に集積された有り余る物資も、運べなければ宝の持ち腐れ。唯一欠けていたのがガソリンだ。
激甚被災地を抱える宮城、福島、岩手の民団各本部は、大震災の翌12日、激しい余震にたびたび襲われながらも体制を建て直し、13日からは団員たちの安否と被害状況の確認に乗り出した。
◆通信手段なく車も動かせず
しかし如何せん、電話は固定も携帯も同じ町内でさえ通じない。訪問確認を継続しようにも車を動かす燃料が15日前後には枯渇した。
中古車販売業を営む宮城本部の李純午副団長は、100台ほどの在庫に少しずつ残っているガソリンを抜き取り、安否確認に走ったが、そんな涙ぐましい努力をエンジンは知らない。
被災地周辺のガソリンスタンドには3㌔、4㌔と車が連なった。運よく給油できても10㍑、あるいは2000円まで。仕方なく、明日の開店まで徹夜で並ぶ。だが、営業するとは限らない。
民団幹部に、わずかなガソリンのために半日以上も犠牲にする余裕はない。中央対策本部がガソリン調達に動いたのは14日の昼頃から。その時点では、山形県内で十分に入手できるとの情報だった。神経を使ったのはむしろ、ガソリンを小分けして運ぶ容器の確保だ。
◆燃料の確保へあの手この手
これが八方手を尽くしても手に入らない。16日の昼頃、兵庫県西宮市の業者に在庫が10缶(20㍑)あることを突き止め、翌17日午後1時までに新潟営業所止めで送る契約を成立させた。しかし、山形の肝心のガソリン事情は1日で急激に悪化、先発隊は山形での入手を断念した。
民団新潟本部の金慶昭団長が先発隊から、「ガソリンと灯油をできるだけ多く、至急送って欲しい」との電話を受けたのは16日午前10時。「分かった。2000㍑でも3000㍑でも、すぐに送る」。金団長は即答した。しかし、「地元の顔見知りの業者でさえ、10㍑以上は売れない」という厳しい現実に直面する。
それでも、悲壮な覚悟でドラム缶2本分と灯油200㍑を掻き集めたのだから凄い。「それだけでは申し訳ない」と、富山県の知り合いの業者からもう一本を強引に取り寄せた。どのような手段を用いたのか。
その頃、同じく中央対策本部から依頼を受けたあすなろ信組(伊昌旭理事長)は、取引先のスカイエネジー(東御市)の林博昭専務に連絡、ドラム缶2本のガソリンをキープした。
「弊社は大手の系列に属さない無印の独立系。融通が利く。少しでも同胞のお役に立てればと工面した」(林専務)。
だが、簡単ではなかったはず。実際に1店は在庫がなくなり、一時閉店せざるを得なかった。
ガソリンはドラム缶で運ぶにも、20㍑缶に小分けするにも、缶5個100㍑以上を運ぶにも、危険物取扱責任者が立ち会う必要がある。車両には「危険物」のプレートも付けねばならない。
新潟車はレンタルのバンボディ。危険物取扱責任者も同乗していたはずだ。これを金団長のプリウスが先導し、大雪のなかを4時間半かけて、16時45分に到着した。ドラム缶は、積んでいた金属板を使い7、8人がかりで降ろした(写真下)。
長野の林専務は取扱責任者を同乗させたのはもちろん、車両はドラム缶の積み降ろしのための小型クレーンを装着したレンタルのユニック車。新潟の1時間後に到着した。
この時点で、民団山形本部会館には、ドラム缶5本のガソリン1000㍑、灯油400㍑、軽油100㍑が集まった。
◆命綱のガソリン急送
先発隊は「なるべく多く!」「早く!」と急くだけで、車種にまで気が回っていない。ユニック車は願ったり適ったりだった。しかし、新潟車にも長野車にも、クレーンを扱える人がいない。ドラム缶を吊るすワイヤーがない。新潟車搭載のタラップが長野車には合わない。はたと困ったとき、スーッと現れたのが山形本部の車寿鎔団長だ。自転車で自営のスクラップ工場からワイヤーを持ち帰り、「自分のとは様式が違う」と言いながらもユニック車を巧みに操り、ドラム缶を降ろした(写真上)。
この日、山形市周辺は大雪。民団宮城差し回しのトラックが16時の到着予定を過ぎても来ない。事故渋滞に巻き込まれたとの連絡。17時、「韓国国民は事故原発から80㌔県外へ退避せよ」との勧告を韓国政府が出したとのニュースが流れた。「ガソリンはまだか!」と痺れを切らす福島民団まで今日中に持っていけるのか、スタッフに焦りが広がった。
大型ウィングボディの宮城車が到着したのは18時頃。山形会館前の道路は、小型乗用車がやっとすれ違うことのできる幅しかない。宮城車とユニック車がお尻を向け合う。宮城車がウィングを上げるが、電線が邪魔して3分の2ほどまでで精一杯。狭い空間で、積み込みは可能か。
◆針の穴を通すクレーン作業
クレーンを操る車団長に、上げ、下げ、伸ばせと指示する宮城車の運転手の声が雪の降りしきる住宅街に響く。車団長の針の穴を通すような、それこそ芸術的とも言えるさばきで、ドラム缶3本が無事収まったのは19時近かった。
宮城車の運転手は運送業を営む宮城の団員。帰りの燃料の保証がないまま、危険な雪道を走ってくれたのだ。その事情を知った新潟の金団長が決断、新潟車の帰路用に念のためにと持ってきた軽油20㍑3本のうち2本を提供した。彼は笑顔を残して仙台に向かった。
19時20分には、前日16時半に東京を出発した中央対策本部のスタッフ6人が緊急指定車両2台に分乗して到着。孫成吉民団総務局長が率いる青年会中央、東京本部のメンバーで、中央対策本部や新潟からの緊急物資のほか、新潟営業所止めだったガソリン缶10個を積んでいた。
直ちに小分けし、仙台経由で郡山、盛岡へと向かう緊急車両1号に積み込んだ。林三鎬副団長と支援要員の2人が乗った1号車が山形を発ったのは20時40分。郡山着は23時50分だった。盛岡へは翌日正午に入った。備蓄ガソリンを使わないよう、高速道で逐次給油しながらの疾走だった。
(2011.3.25 民団新聞)