一の宮とは、その地で最高の格式と由緒をもつものです。伊賀一の宮敢国神社の祖神は大彦命ですが、渡来人秦氏族が信仰する少彦名命の二神を合祀しています。また、藤堂家の鎮護神として崇拝されました。更に服部宗家の氏神を祭る神社でもあって、とても多彩です。
黒党と称される忍者の祭祀は、長く途絶えていたものをイベントとして復活させたものです。映画などに登場する彼らは黒装束ですが、これは多分に後世の人々のイメージしたものでしょう。
忍者屋敷では、観光客に忍者ショーの実演を見せます。くノ一は杏色や紫の衣装です。当時は実は柿色だったんですって。闇には紛れ出血しても目立たず、また変幻自在に変装もしていたとか。
随分前にテレビの時事番組で、作家の金達寿氏とご一緒しました。その折りに氏から敢国はカンコク、韓国とも読み、チマチョゴリの女人のご真影が奉納されていると聞きました。
エエ! 本当?でも何故? それから随分年月を経たある日に、未知のカメラマンと遭遇します。
彼は雑誌の取材で、神社の撮影を済ませた帰途でした。そこで、朝鮮女性のご真影のことを尋ねてみます。彼はご真影を撮影していました。でもここも非公開で神社の許可無くしては、誰も観られないのですよ。
神社の創建は7世紀、斉明天皇の御代です。彼女は天智天皇の母君ですね。
中大兄皇子時代に百済救済のため、大和朝廷の援軍を送り出したときは、喪服姿だったとか。古代の皇族は、多く百済や新羅と深い関係があったのではないかしら。
それに秦一族とも縁があります。中でも超有名人の秦河勝は、聖徳太子に仕え広隆寺を建立しています。伊賀にも居住していたとは意外です。一族は、様々な文化や技術を伝授しました。伝統工芸品の組紐や伊賀焼き、酒造、それからすでにお話した能なども。
秦をハタと読むのは바다、海や파단波旦(地名)、機織からだとする説があるけれど、韓国語の古語が分からず、しばしば想像を巡らしています。
急な石段の両側を木々が生い茂る神社は、閑で格式ある美くしさ。ふと天理市の石上神宮を思い出します。物部氏の武器庫だった神宮には、4世紀に百済から倭王へ七支刀が贈られました。祭祀用の鉄剣で像嵌銘文が61文字施されています。
百済との濃密な関係を示す、現存する最古の文字史料なんです。
古代朝鮮と倭国、大和から伊賀へ繋がる一帯には、壮大な歴史物語が潜んでいるのですね。きっと国境を超えた熱いロマンスもあったはずよ。
李正子(歌人)
(2011.6.22 民団新聞)