親を見送る時には不思議なことがありますね。今も昨日のように蘇る夢です。海草のように揺れ動く青葉の上を、父がふわりふわり彷徨っています。呼べども振り向かず、やがて松の木が立つ見知らぬ山門へ吸い込まれました。追い掛ける私に何故か、山門が開きません。
父が六月毎にもって来るのは、真っ赤な薔薇です。その日、私はこの薔薇を残したいと思うのです。「今は花季だから根付かへん、秋に植えるから」「ウン」と私。
でも翌日、根こそぎ引き抜いた薔薇を抱いて来ました。暑い暑い夏でした。空梅雨で池の水が干上がりました。移植した薔薇に水を連日注いでも枯れるばかりです。諦めて放っておいたのですが、七月初めに芽を出したのです。
「来年は綺麗に咲くなァ」父にはしかし、それを目にする日は来ませんでした。案じさせまいと、末期癌を秘し呆気なく八月の風に乗って逝きました。
墓所を持たないため、葬儀には混乱しました。葬儀社のYさんが当時は珍しい携帯で、M寺に話を付けてくれます。そうして訪れたお寺の山門に松の木が闇に佇んでいました。ええ、夢に見た松なのでした。信じて頂けますか? このお話。
翌る年の薔薇の花が終わる頃にYさんから、父のお供えに枇杷を頂きます。私は薔薇の側に枇杷の種を埋めます。理由など無い単なる思い付きが、一年後に芽吹かせました。枇杷はどんどん伸びて木陰を作ります。
沈丁花は陽が当たらず黄ばみ、薔薇は葉を落とします。十年後に枇杷は、突然に葉陰から円らな顔を無数に覘かせました。
冬が来ると温突部屋では、父がよく色々な漢詩を唱えるのです。暗い村の夜を流れる一筋の韻律、その未知なる音色は幼い蝸牛に閑かに忍び込むのでした。
「風は手が無くても木々を揺するだろう」 枇杷の葉が風に揺れ一面に散りしく朝に口ずさむフレーズです。風は宙に身を委ね、無心に思いを運びます。泡立つような花を掲げ、枇杷は冬の梢を覆います。色褪せても薔薇は咲き続けるのです。強いですね、有るが儘って。
旅立つあなたの足下で彷徨っていた青葉は、もしや枇杷の葉ではなかったのかしら? 薔薇の季節は忘れてええ。もう好きに生きたらええ。風の戦ぎはあなたの声やね。そうやね。
三姉妹の末娘はとても愛されたけれど、自由も又なくて、門限は年中五時でしたね。甘くて辛いあなたに何時だって全く逆らえなかったのでした。でも門限がある季が娘さんは華季よ。之はそう一世と二世を繋いだ時代の甘辛あい記憶なのでした。(歌人)
李正子(歌人)
(2011.7.13 民団新聞)