【福岡】大牟田市北部の甘木山公園内に建つ「徴用犠牲者慰霊碑」前で7日、第2次大戦時に三池炭鉱に徴用され、亡くなった数十人といわれる同胞の霊を慰める催しがしめやかに営まれた。
主催したのは在日コリア大牟田(禹判根代表)。今年で18回目を迎え、民団中央本部の呉公太団長をはじめとして韓日両国の関係者100人以上が献花した。
中央の慰霊碑を挟んで左端に被徴用者が馬渡社宅の押入れ壁に書き残した墨書の記念碑。右端にはハングルと日本語で書かれたふたつの徴用犠牲者慰霊碑が並ぶ。
碑の大部分は被徴用者の出身地である京畿道内で造って運んだ。敷地の一部は大牟田市が無償で提供、碑建立にかかわる経費は関連の3つの企業が全額負担した。行政と企業、在日という3者の協力のもと、解放から50年という節目の年である95年4月に除幕した。これは全国でも珍しいケースといえる。
呉団長は、碑を前に、「強制徴用が存在したという事実を、この碑は末永く後生に語り継いでくれるでしょう。在日同胞が歩んだ苦難の歴史を風化させてはならない」と述べた。
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碑建立まで15年 禹判根代表
徴用犠牲者のための慰霊碑建立は、禹判根さんが民団大牟田支部支団長に就任した89年に初めて公にした目標だった。
きっかけは在日韓国人の集まる酒席である同胞が、徴用で亡くなった仲間を悼み、「なぜ先に逝ったのか」と涙を流す光景を目撃したこと。徴用犠牲者の遺骨はどこに埋葬されたのか。気になった禹さんは、大牟田市内のほぼすべての墓地を回った。しかし、犠牲者の墓を見つけることはできなかった。それからは大牟田に徴用された同胞の足跡をたどり、系列の染料工業所や電気化学工業所などで死亡した同胞の名前や死亡原因、遺骨の行方などを調べた。
10年がかりで徴用の実態と全体像をほぼつかむと、次は3つの関係企業を回り、慰霊碑建立の必要性を説いた。企業側は課長、主査など6人が対応した。
禹さんの日記によれば、一つの企業相手に250回の交渉を重ねたこともある。
最後に企業側を追い詰めたのは、当事者の生の証言と、最後まで隠しておいた決定的な資料だったという。その資料を提示したときに、禹さんは、担当者の手がぶるぶる震えていたのを鮮明に記憶している。
念願の慰霊碑建立にメドが立った日、禹さんは家に帰り、うれし泣きした。除幕したのは、建立を決意してから15年後のことだった。
(2013.4.12 民団新聞)