掲載日 : [2018-06-27] 照会数 : 5981
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く <3>対馬(万松院対馬藩主宗家の菩堤寺)
[ 対馬では最古の建物、万松院山門 ] [ 万松院菩提寺への参道は百雁木(132段の石段)と言われている ] [ 朝鮮から進呈された三具足 ]
釜山の龍頭山公園には、草梁(チョリャン)倭館(1678~1876)記念碑がある。資料では、この広大な敷地(約10万坪)に400人以上の対馬人がいて、外交や貿易を司っていたという。
対馬は山がちで農地が少なく、米の多くを朝鮮に頼るしかなかった。対馬藩は銀を朝鮮に輸出し、先方からは江戸や大坂の富裕層向けの西陣織用として生糸を仕入れた。、それから高麗人参・穀物類なども一手に引き受け本土で売りさばき、莫大な利益を得た。
朝鮮との外交の場であった金石城跡(対馬藩居館)周辺に、対馬藩の墓所である万松院(ばんしょういん)がある。1615年に対馬藩20代藩主・宋義成(よしなり)が、父義智(よしとし)の冥福を祈って創建した菩提寺である。2度の火災で万松院は焼失したが、安土桃山様式の朱塗りの山門は免れた。この門は対馬最古の建物である。
レンズを向けると晴天の日射は強すぎて、山門に掛かる影が木目のディテールを覆ってしまう。画像が平坦になるが、しかたなく、露出を上げて調整した。
本堂には徳川将軍と対馬藩との深い関係を記す「徳川歴代将軍御位碑安置所」や朝鮮から贈られた「三具足」なども飾られていた。
菩提寺への参道は、百雁木(132段の石段)と言われている。中腹に「中御霊屋」(なかおたまや)、もう少し登ると「上御霊屋」(かみおたまや)となる。朝鮮との交渉での先陣に立った義智、日朝修好体制を確立させた義成、城下町の整備や御船江を敢行した義真(よしざね)の墓を探した。宗家19代から32代までの藩主とその家族が、ここに祀られているのだが、あまりにも墓石が多すぎて参った。
墓石配置図もなく、根気よく探すしかない。樹齢1200年と言われる大杉を始点とし、藩主の名札と墓石を確認しながら、角度を変え撮影もした。やっと義智の墓に出会えたが、意外なことに息子の義成より小さい。その上、孫の義真の墓が格別大きかったことに驚いた。その格差は倭館貿易の景気のバロメータになっているようだ。
万松院から金石城に戻るところに、清水山城跡への道標があった。この山城(210㍍)からだと厳原港全体を俯瞰できるだろう。本丸への登り口で撮影スポットを見つけた。ここでは日差しが強いことが上手く作用して、コントラストの中に厳原港の入江が浮かび上がっていた。
藤本巧(写真作家)
(2018.06.27 民団新聞)