掲載日 : [2018-07-11] 照会数 : 6977
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<4>対馬(雨森芳洲の墓)
[ 雨森芳洲の墓 ] [ 花井院長彰徳碑(全羅南道高興郡) ] [ 朝鮮通信使の客館だった国分寺の正門 ]
相互理解記した「交隣堤醒」
近江に生まれた雨森芳洲(1668~1755年)は22歳のとき、儒学者・木下順庵の薦めで、対馬藩に勤めた。勉学さえできれば、どんなに遠くても良いという考えだった。対馬では藩主に学問を教えたり、朝鮮との外交の仕事をしていた。1703年から芳洲は釜山に渡り朝鮮語を学んだ。そしてこの国との交わりに必要な言葉を集めた『交隣須知』(こうりんすち)を著した。
豊臣秀吉の文禄・慶長の役で朝鮮に多大な被害を与えたことに「人の道に反する戦いで、両国の数知れない多くの人々を殺害したことは最悪であった」と、芳洲は厳しく批判している。
徳川幕府は朝鮮通信使を迎えることで、両国の友好を望んだ。その使節団の案内や守り役は、対馬藩がした。雨森芳洲は2回(1711,1719年)にわたり、朝鮮通信使の「真文(漢文)」役として同行している。常に相手の立場に立って物事を考える芳洲は、朝鮮にも多くの友人ができたといわれている。
厳原町日吉にある長寿院に、雨森芳洲は眠る。
朝鮮の人たちに愛された、もう一人の日本人がいた。
日本が朝鮮を統治していた1916年、日本政府は全羅南道の高興郡にハンセン病隔離施設として「小鹿島慈恵医院」を開設した。現在は「国立小鹿島病院」に改称(1960年)されている。
私は2015年に今は使われていない日本統治下時代の病棟が残る区域を歩いていると、案内役の韓国の人が「花井院長彰徳碑」の前で、日本人院長のことを話し始めた。
初代日本人医院長は朝鮮人ハンセン病患者たちに対して、高圧的な態度で日本の生活様式を強要した。彼のあと1921年就任した2代目院長・花井善吉は、それまでの生活様式を改善した。それは家族との自由な往来に信仰、食生活など。民族習慣の大切さを重んじた。彼の死後、患者たちは募金を募り墓碑を建てた。日本による植民地支配からの解放後、日本人の顕彰碑は破壊されたが、患者たちは墓碑を地中に埋めて守った。
雨森芳洲の称える学問の大切さが『交隣堤醒』(こうりんていせい)に書かれている。
「朝鮮との外交を行うについては、第一に歴史や文化、生活のならわしなどを知っておくことが大切である。(中略)日本と朝鮮とは、物事の仕方や作法が違い、好みや親しみも違うことから、日本の作法やならわしで朝鮮の人と交わると、くい違うことが多くあるので注意しなければなりません」
藤本巧(写真作家)
(2018.07.11 民団新聞)