掲載日 : [2018-07-25] 照会数 : 7088
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<5>壱岐(神皇寺跡・聖母宮・勝本城跡)
[ かつて通信使と対馬藩をあわせて1,000人以上が宿泊した神皇寺跡(現・阿弥陀堂) ] [ 勝本城本丸跡から韓半島方向を望む ]
海を埋めたて1000人宿泊
朝鮮通信使の壱岐での寄港地は勝本港であった。通信使と対馬藩を合わせて1000人以上が、神皇寺(じんこうじ、現・阿弥陀堂)に宿泊した。広大な敷地を確保するため、周辺の海を埋め立てたと聞く。勝本浦は三韓出兵(さんかんせいばつ)時代(神功皇后=じんぐうこうごう=が新羅出兵を行い、朝鮮半島を服属下においた戦い)には、航海の順風を待つところであった。幕府にとって通信使を迎えることは、総額100万両(約500億円)の接待費が掛かってくる。
勝本浦での滞在は、2~3週間だった。そのときの饗応食(きょうおう)は、米7500kg、するめ3000kg、山芋1500本、卵1万5000個、アワビ2000貫、そしてお酒が15石(900リットル)が消費された。
爾自神社(にじじんじゃ)の東風石(こちいし)でのお参りは、表向きは航海安全であったが、風待ちで長逗留(とうりゅう)による財政逼迫を懸念して、一日でも滞在が短くなることを祈願したことを資料で知った。
約2500坪もあった神皇寺跡には、明治時代からの家屋が建ち並び風情があった。ところが意識しなければ見過ごしてしまうぐらいの小さな阿弥陀堂が、それらの建物の隙間に埋もれていて、朝鮮通信使時代の栄華はなかった。お堂の引き戸を開けると、朝のお祈りを終えたばかりのお年寄りが出迎えてくれた。
ここでは信仰心が未だ息づいている。壱岐は豊臣秀吉の朝鮮出兵をしたときの前線基地であった。神宮皇后を祭った聖母宮(しょうもうぐう)は、ここからすこし離れたところにあったが、朝鮮通信使はここには立ち寄らなかった。
加藤清正が寄進した聖母宮の門や風除けの石積みが今も残っている。私は超広角レンズで石積みを強調し、門を遠方に入れた構図でシャッターを切った。次は門を主に撮そうと近づいたが、寺の修復をしている職人たちが、どの角度からもファインダーに入る。
ほんの少しだけ、この場から離れてくれないかと頼んだが、「セメントが落ち着くまで駄目だ」と断られた。彼らの仕事が終わるまでの間、私は朝鮮出兵時に築いた勝本城跡に行くことにした。
勝本港を眼下に望む山頂に、築城された城跡。秀吉は肥前名護屋城に本拠を置き、朝鮮半島までの飛石的な二つの島に勝本城と対馬の清水山城を築いた。
壱岐・城山公園として整備された勝本城本丸跡から、カメラを朝鮮半島の方角に向けた。権力という野望から、朝鮮出兵を命じた豊臣秀吉であったが、文禄(1582~93)・慶長(1597~98)の役に敗れ、その心労から自らの命を縮めたのである。
藤本巧(写真作家)
(2018.07.25 民団新聞)