掲載日 : [2018-10-10] 照会数 : 6651
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く…<8>上関(超専寺・旧上関番所・上関御茶屋跡・上関港)
[ 毛利家の家紋を屋根瓦にあしらった四代(しだい)番所 ] [ 朝鮮通信使が入航した上関港。右は上関大橋 ] [ 超専寺の山門の下で ] [ 朝鮮通信使の高官が宿舎とした上関御茶屋の跡 ]
にぎやかな上関来航しのぶ
朝鮮通信使は、赤間関(あかまがせき)から無数の島々が織りなす瀬戸路の絶景を堪能し、海上140㌔メートル先の上関(かみのせき)に向かった。
新井白石は、1711年に使節団の受け入れを簡素化して経費を抑えようとしたが、1764年(推定)第11回のときに描かれたであろう超専寺(ちょうせんじ)所蔵の「朝鮮通信使船上関来航図」には、にぎやかな入港の様子が描写されていた。絵図に書かれた注記を見ると、「正」の旗が掲げられた第一級外交使節団長が乗った「正使乗船(せいしのりふね)」と荷物を乗せた「正使ト船(せいしぼくせん)」、それから2番目、3番目に高位の人が乗った「副使乗船(ふくしのりふね)」と「従事乗船(じゅうじのりふね)」へ続く。
毛利家の家紋を付けた警護船も目に入った。左中央には朝鮮通信使上陸専用の「唐人橋(とうじんばし)」があり、上の方には高官の宿舎だった「御茶屋」、中央上部には「定御番所(ごじょうごばんしょ)」と警護用の刺股(さすまた)、槍、鉄砲なども描かれている。そして下部左に目をやると、水を運ぶ「水船」とそれを監視する「水船支配(みずぶねしはい)」。この上関来航図は室津北の村から見下ろしたように思われる。
山陽本線「下関」駅を午前10時に出発して、「柳井」駅で便数の少ないバスに間に合い、「渡船場前」で下りた時刻は午後2時ごろだった。バス停から少し離れた脇道を歩き、急な石段を登るとそこには超専寺の山門があった。
本堂で片付けをしていた住職に、資料で知った「朝鮮通信使船上関来航図」のことを聞くと、その絵図は博物館で保管されていて、お寺には朝鮮通信使関連の遺物は無いと言われた。唯一残っているのは「上関御茶屋跡」から移築した毛利家の家紋が入った屋根瓦だけだった。それから「旧上関番所跡」のことを尋ねると、是非訪れたら良いと地図まで描いてくれた。
萩藩の「上関御茶屋跡」は、港町の風情を残すくねくねした路地を通り抜け、小高いところにあった。
当時の「御茶屋跡」の敷地面積は、3000坪に及んだという。1632年から上関の南に位置する四代(しだい)に番所(通行人や船舶の取り締まりをする所が置かれていた)があったが、建物の破損が激しいことや朝鮮通信使来聘のこともあり、1711年に上関の海岸沿いに移築、現在は「旧上関御茶屋跡」の敷地内に置かれている。この番所の屋根瓦も毛利家の家紋だった。
上関港には、漁を終えた船や出港準備の船が接岸されていた。バスの最終便に乗って「柳井」駅に戻るのであるが、乗客は私だけだった。
藤本巧(写真作家)
(2018.10.10 民団新聞)