日本は韓国を併合すると、朝鮮総督府は植民地政策を推し進めた。その第一歩は、朝鮮総督府の財政を確立するために1910年から8年間にわたり韓国全土を対象に行った「土地調査事業」だ。広大な土地を国有地として収奪し、その多くは日本人に払い下げられ、次々に日本人地主が誕生した。
この事業によって農地を奪われた農民らは、小作農化するか、日本や満州などへの移住を余儀なくされた。
1920年からは、1918年に起きた日本の米騒動を契機に、米の増産を図る「産米増殖計画」を開始する。朝鮮総督府の主導によって13年間行われたこの計画によって、米の生産量は増えても農民の口に入る分は減り、農民たちの困窮は深刻化した。
さらに、1937年から「皇民化政策」を本格的に始動、1938年は韓国人も志願すれば日本兵になれた「陸軍特別志願兵令」を制定、1939年には「国民徴用令」を韓国にも適用した。1940年代には徴兵、徴用が行われた。
こうして多くの韓国人は、強制的に押し付けられた政策によって、過酷な人生を強いられることになった。
高成一さんが保有している日帝時代の絵葉書は、当時の韓半島13道市町村のもので、仕事、港、駅、寺、妓生など25のタイトルに分類されている。韓国人の風俗、風習などを紹介しているものも少なくない。
そこには、あらゆる世代の韓国人の喜怒哀楽が映し出されている。
子供の姿に貧豊の差
|
|
子供の菓子売 |
子供ノ荷負 |
|
|
1歳の誕生日を祝う韓国伝統行事「トルチャンチ」を写した「誕生日の祝」は、伝統衣装のトルボッを着た子どもの前に、祝いの餅や果物などがのせられたトルサン(膳)が置かれている。豊富な食材や真新しい韓服を着ていることから、上流階級の子どもに見える。
「子供の菓子売」について高さんは「日本人男性は、少女や孤児たちを集めて飴売りや餅売りの商売をさせていた」と説明する。「日本人は、下流で暮らしていた貧しい人たちを集めて自分のしもべにした。親のいない子は仕方なく従うしかなく、虚しさ、悲しさ、悔しさがあったと思う」と当時の厳しい生活状況について語った。
「子供ノ荷負(チョンガーチゲクン」で、チゲ(背負子)を背負っている少年は10歳前後だろうか。荷物の上には魚と、片足を縄で縛られた鶏が1羽乗っている。この時代は、子どもであっても日々の糧を手に入れるだけで精一杯の生活を送っていたのである。
酒に関連する絵葉書もある。妓生が貴人の女性にビールを注いでいる「美人の酒宴」と、アサヒビールを手にする韓服女性の2枚だ。製造元の朝鮮麦酒は、日本のサッポロビールとアサヒビールなどの前進である大日本麦酒が、地元資本と折半して資本金600万円で、1933年8月に設立された。
|
美人の酒宴 |
|
絵葉書は、日本人にとってどのようなものだったのか。「当時、絵葉書が1枚発売されたら、記念品店、文具店、八百屋、呉服店などが同じような絵葉書を売っていた」。「安い・簡単・軽い」絵葉書は、手ごろな土産品だった。
|
|
アサヒビールと韓服女性 |
朝鮮志願兵 |
|
|
「朝鮮志願兵」(山田新一筆)には、目を伏せて、うつむき加減の母親と日本旗を持った妹が描かれている。この絵葉書は日本を象徴する1枚といえる。
|
京城の町並 |
|
|
桟橋と連絡船 |
|
日本人カメラマンが撮影した「京城の町並(京城本町通舊)」は、着物姿の日本人少年と裸足の韓国人少年を対比するように収められている。高さんは「日本人の優越感が出ているようだ」という。
また「桟橋と連絡船」は、釜山の桟橋に降りてくる日本人の堂々とした姿と、うつむき加減に歩く韓国人男性がいる。「京城の町並」同様、まるで日本人と韓国人の立場の違いを強調したかのような絵葉書だ。
収集の高さん「歴史として残したい」
高さんは「韓国人は今、豊かな生活になった。そのなかで少しでも昔のこと、自分たちの祖先がどういう暮らしをしてきたか絵葉書を見て感じてほしい」と切望する。
「今後は収集した絵葉書を収録した本を作って、植民地時代に生きた人たちの歴史として世の中に残したい」。それが高さんの夢である。
(2018.10.10 民団新聞)