掲載日 : [2018-10-24] 照会数 : 6220
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く…<9>下蒲刈(松濤閣、長雁木、三之瀬客館跡)
[ 三之瀬朝鮮通信使宿館跡 ] [ 福島雁木(船着場) ] [ 江戸時代に使用した井戸 ] [ 朝鮮通信使資料館の「御馳走一番館」(松濤閣) ]
「御馳走一番」お持てなしを絶賛
朝鮮通信使の研究者、辛基秀さん(1931~2002年)とは、87年に「国書」の調査で韓国同行取材をしたことがある。その頃の朝鮮通信使は遣唐使、遣隋使のような認知度はまだなかった。
朝鮮通信使の日本取材は、辛基秀著『新版 朝鮮通信使往来』(明石書店2002年)をベースに歩いている。(初出版は労働経済社93年)
「安芸の酒と雉(きじ)300余羽の歓迎宴。広島藩・蒲苅島」という章では、『東槎録(とうさろく)』から1719年(享保4年)の話が引用されていた。その内容は僅か3日間だけの滞在に、広島藩が5カ月も前から「お持てなし」の準備がなされた話から始まる。
「御茶屋」の改修は「御馳走所絵図」の設計図に基づいて取りかかり、新しく掘った井戸でも水が足りず、広島の三原から飲料水を運ぶ水船数百隻が入港したことなど。
料理については、朝鮮通信使御馳走人、酒菓子奉行、賄い青物奉行、活鳥奉行など総勢759人の役人が島に渡り、接待準備に専念した。また通信使一行の嗜好調査で、雉を好むと分かれば大金をはたいて調達した。その甲斐あって通信使に同行した対馬藩主から、下蒲刈の料理を含めた接待について「安芸蒲刈御馳走一番」と絶賛されている。
私は長雁木(がんぎ)のある船着場にも行ってみた。この雁木は、江戸時代に幕命によって広島藩主、福島正則が作ったのであるが、朝鮮通信使だけでなく琉球・オランダの使節団も、この長雁木(長さ約113メートル、11段)から上陸したと案内板に記されていた。現在は長さが約55・5メートルと短くなり、3段増えている。(1952年に地盤沈下、高潮対策で段が増えた)
呉市の大学生による地域活性化プロジェクトの一環として作成された情報で、広島の県史跡に指定(1940年)された「上御茶屋跡」に通じる石段が、その当時の面影を残していることを知った。三之瀬御本陣芸術文化館(本陣跡)の細い脇道に入り、あみだくじのような路地を上がったり下がったりして、やっと石碑に刻まれていた「三之瀬朝鮮通信使宿館跡」を見つけた。
辛基秀さんの文章の中に、これまで多くの歴史的な遺物を火災で失ってきた下蒲刈島。朝鮮通信使との出会いを文化的遺産として石碑に刻み、新しく創設された朝鮮通信使資料館の「御馳走一番館」(1994年設立)には、朝鮮通信使関係文物や饗応(きょうおう)食などが展示され、資料館としては画期的なものであると記されていた。
藤本巧(写真作家)
(2018.10.24 民団新聞)