掲載日 : [2018-10-31] 照会数 : 6675
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く…<10>鞆の浦(福禅寺、対潮楼、鞆港)
[ 朝鮮通信使が宿とした使館・福禅寺 ] [ 客殿からの展望が素晴らしい「対潮楼」 ] [ 江戸時代末期の情緒を色濃く残す鞆の浦 ]
客殿からの展望「日東第一形勝」
1711年に朝鮮通信使一行は鞆の浦を訪れ、福禅寺を使館としていた。従事官だった李邦彦は、客殿からの展望が素晴らしく「日東第一形勝」と賞賛したのである。
ところが、訪日10回目(1748年)の朝鮮通信使一行が鞆の浦を訪れたときの宿は、これまでの使館・福禅寺ではなかった。
由緒ある寺ではあったが、時が経ち本堂も客殿も荒廃してしまっていた。その現状を、目の当たりにした朝鮮通信使たちは、気分を害し指定の使館には行かず、そのまま船のなかで過ごしたという。
その翌日、正使・洪啓禧は無理を承知で接待役に頼んで福禅寺を訪ねるのである。そして僧侶になぐさめの言葉をかけた。それから、その荒れ果てた客殿に『対潮楼』と名付け、息子の洪啓海(20歳そこそこ)にその名称を書かせて僧侶に与えた。僧侶はその好意に深く感謝して、さっそくその文字を木版に写して使館に飾った。
その筆跡は『筆力遒勁(しゅうけい)、人をして驚かしむるに足りる』として、後世の人びとからも賛えられている。
そのときから15年が経った1763年には、福禅寺の修復を終え朝鮮通信使を迎えたという逸話を、歴史研究者・李進〓著『朝鮮文化と日本』から知った。
バス停「鞆港」で私は下りた、急な石段の坂を上がったところに福禅寺があった。閉館に近づく時間帯なのか、対潮楼には人影がなかった。瀬戸内に浮かぶ仙酔島を背景とした小さな無人島・弁天島にある弁財天福寿堂と鳥居の存在がアクセントになり、風景を引き締めている。室内は夕陽が畳に反射して、壁に掛けられた李邦彦の言葉「日東第一形勝」が微かに読める明るさだった。
韓国を旅していて、客人をもてなす場としての「楼閣」を撮影したことがある。たとえば蔚山の太和楼は四方に壁がなく柱だけで屋根を支える構造は、垣根のない風景を鑑賞者にもてなす。ここからの眺めは、逆光から生まれる壁のシルエットが額縁となり、風景との距離感を持たせている。
鞆の浦を歩くと、古い町並みが続く。朝鮮通信使も味わった保命酒の製造酒屋(現・太田家住宅)や常夜燈に雁木などが、いまでも江戸時代末期の情緒を色濃く残している。私は遊覧船に乗船して、これまでと逆方向から石垣の立派な福禅寺を眺めた。
藤本巧(写真作家)
(2018.10.31 民団新聞)