掲載日 : [2018-11-14] 照会数 : 6199
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<11>牛窓(本蓮寺、唐子踊海遊文化館、疫神社)
[ 本蓮寺 ] [ 本蓮寺境内と三重塔 ] [ 本蓮寺の棕櫚と蘇鉄 ]
置き土産の「唐子踊」を保存継承
「日が西に傾く頃、牛窓に泊す。遙かなる山は湾を控え、景観が爽濶である。…中略… 使館の供帳は、韜浦の如くに盛んである。傍らに一塔あり、上に銅柱をたて、半空に高く突き出ている。名は本蓮寺という」から始まる第9回目(1719年)の申維翰が書き記した、『海游録・朝鮮通信使の日本紀行』での寄航港・牛窓と本蓮寺についてその印象が書かれていた。
朝鮮通信使の正使らは3度(1636年、1643年、1655年)に亙り本蓮寺を使館としたが、それ以後は岡山藩の御茶屋(迎賓館)に移った。本蓮寺客殿の前庭には、朝鮮通信使時代から育つ樹齢300年を優に越す蘇鉄や棕櫚があった。
牛窓の港は潮待ち風待ちをする船が往来、古くから貿易港として栄えたのである。江戸時代の道幅をそのまま保存する「しおまち唐琴通り」を歩いてみた。登録有形文化財の造り酒屋や商家などが建ち並び、船溜まりのある本町には、岡山藩の施設だった「御茶屋跡」と1654年(承応3)に掘られた「朝鮮通信使ゆかりの井戸」などが残っていた。
そのあと海岸沿いまで戻りフェリー乗り場に向かっていると、元禄時代に造られた、風浪から湾を守る「一文字波止(現在はコンクリートに覆われている)」が見えた。ここには、『海游録』を語源とするであろう「海遊文化館」がある。朝鮮通信使資料室には、「唐子踊」に関する資料が多かった。たとえば複写であったが「朝鮮通信使の音楽隊」「唐子踊の屏風」「小童対舞」等々。企画展としては各地で作られた形状の違った「唐子人形」などが並べられていて興味をそそられた。
この「唐子踊」の祭りは、「海遊文化館」から2㎞ほど離れた疫神社(紺浦地区)で、毎年10月の第4日曜日に執り行われる。資料映像では、唐人笠風の帽子を被り色鮮やかな衣装を着た少年(7~8歳)2人が、大人に肩車されて鳥居を潜り祠に参詣してから、境内に敷かれた御座に下ろされて「今年はじめて日本へ渡り…」という口上のあと、横笛と小太鼓に合わせての踊。秋祭りの神事として疫神社に奉納するシーンが続く。
朝鮮通信使の正使、副使、従事官の身のまわりの世話をする小童は、多芸多才だった。三使の旅の疲れを癒やすため、楽隊の演奏に合わせて「小童対舞」を踊った。牛窓の「唐子踊」は、朝鮮通信使のときの置き土産としてこの町に保存継承されている。
藤本巧(写真作家)
(2018.11.14 民団新聞)