掲載日 : [2018-11-14] 照会数 : 6244
時のかがみ-「つかこうへいの輝き」…キム・英子・ヨンジャ(歌人)
[ 「生誕70周年企画展」では、多くの資料が展示された ]
多面的な人間が作品の深みを生む
劇作家・演出家で直木賞作家でもあるつかこうへい。つかさんが高校時代まで過ごした福岡県嘉麻市で先月「つかこうへい生誕70年企画展」が開催された。
主催したのは県立山田高校時代の同級生を中心とした実行委員会である。小学校の修学旅行や高校時代の写真、高校の新聞部で執筆したコラムや、高校卒業の翌年に同級生たちが出した文集に東京から寄せた掌編小説などが展示され、多くの人が訪れた。企画展のイベントには私も出演して、その掌編を朗読した。こうした機会をいただいたのは、つかさんの地元の友人知人への取材を続けているご縁による。
よく知られていることだが、つかさんは慶応大学在学中に演劇の世界で頭角を現し、25歳で岸田國士戯曲賞を受賞。つかブームを起こし、「つか以前、つか以後」と言われるほど演劇界に大きな影響を与えた。戯曲以外の著書も多く、『娘に語る祖国』で在日韓国人2世であることを述べた。
つかさんの韓国名は金峰雄。けれども、高校時代の同級生たちにとっては彼は金原峰雄である。一番親しかった友人も彼が在日2世であることを当時は知らなかった。つかこうへいとなった金原くんの功績を讃えたい、彼がここで生まれ育ったことを伝えたいとの思いの温かい企画展だった。
私がつかさんの存在を知ったのは19歳の時。在籍していた学生劇団で彼の代表作「熱海殺人事件」を上演したのだ。卒業して演劇を離れてもその著書は読み続けた。10年ほど前、彼の講演を聴いた折に挨拶できたことは大切な思い出だ。
つかさんが亡くなりましたね辛いとか悲しいだとか使えぬメール
私にとってつかさんは霧にかすむ中で遠くに見えている灯りだった。つかさんがいる。それが胸のどこかでたのみとなっていた。だから、2010年に朝刊1面でその死を知った時は衝撃を受けた。すぐには涙も出ず、呆然となった。まだ62歳なのだ。肺癌のことは公表されていたが、病床からの復活を信じていた。
「葬儀もお別れの会も不要。しばらくしたら娘に日本と韓国の間の海に散骨してもらいたい」という趣旨の遺言が公にされた。
その5年後に出版されたのが『つかこうへい正伝 1968~1982』(長谷川康夫著)である。大学入学からつかこうへい事務所解散までを綴った評伝で、身近にいた著者だからこその貴重な証言が多い。ただ、在日韓国人としてのつかさんは詳述されない。 この本を読んだ後から私は取材を始めた。金原と友人たちに呼ばれた高校時代と、つかこうへいとなった大学入学以後と、どちらもほんとうのつかさんだろう。私は同じ筑豊に同じ在日2世として生まれた者として、その前のつかさんも知りたい。人間は多面体だと言われる。それぞれの面の光と影が交差することで表現者の作品はいっそう輝きと深みを増すのではないだろうか。
(2018.11.14 民団新聞)