掲載日 : [2018-12-04] 照会数 : 10335
【寄稿】金玉均と金弘集
[ 金玉均(左)と金弘集 ]
◆急進改革派・金玉均
金玉均(1851~1894)は、1884年(高宗21年)の宮廷クーデター「甲申政変」を主導した急進改革派のリーダーである。
1884年12月4日、金玉均ら急進改革派は郵政局竣工の祝賀宴を利用し、閔氏政権の大臣らを殺害して新政権を立てた。金玉均自身は新内閣で戸曹参判の地位に就き、国家財政の実権を握った。
6日に発表された革新政綱では、清国との伝統的な冊封関係を清算して近代的独立国家を樹立すること、内閣の権限を拡大して国王の専制権を縮小すること、地租を改正するとともに、門閥や身分制度の廃止、などをうたった。近代的立憲君主制のもとで富国強兵と四民平等を志向したのである。
だが、同じ6日の午後に清国軍がこのクーデターに軍事介入した。急進開化派の手勢は敗退し、軍事協力を約束していた日本軍は劣勢と判断して撤退してしまった。あっけない幕切れだった。
◆宮廷クーデターの爪痕
急進主義による無謀なクーデターは多くの犠牲者を出した。金玉均のほか、朴泳孝、徐光範、徐載弼ら中心メンバーは日本に亡命したが、クーデター加担者は末端にいたるまで多くが殺され、中心メンバーの親族も逆賊として処刑された。
文明開化を期して朝鮮で初めて発行された啓蒙新聞・「漢城旬報」の社屋も、この時に怒れる群衆の襲撃を受け、印刷機もろともに焼失している。
朝鮮社会全体がいっきに保守化し、台頭しつつあった有力な開化派勢力が当時の政治地図から消滅してしまったのだ。
残されたのは、旧体制の持続によって特権維持を図ろうとする守旧勢力と、委縮した少数の穏健改革派だった。
上からの近代化をめざして大院君を執政の座から追いやり、開国を断行した閔氏政権もまた、儒林を背景とする保守派の強力な圧力を受けた。開国政策と内政改革はさらに後退させざるを得なかった。
◆穏健開化派・金弘集
金弘集(1842~1896)は、他の開化派と同様に日本視察を経て、中道改革路線を選択した穏健開化派の指導的人物である。困難な激動期に対外政策を担うと共に近代的制度改革にも力を尽くした。
1880年に第2次修信使の一員として訪日した金弘集は、黄遵憲の『私擬朝鮮策略』を入手して朝鮮に持ち帰った。中国の外交官吏である黄遵憲は、当時の極東情勢を論じながら、朝鮮の鎖国政策を時代に逆行するものとして批判し、開国を促していた。
金弘集は高宗、閔妃に開化政策を積極的に推進すべきことを説いて信任を得た。
1881年、閔妃政権の開国への動きに反発した両班守旧勢力による「斥邪衛正運動」が高まると、金弘集は全国の儒生たちから集中攻撃をうけて役職から退いた。しかしすぐに再任され、外交部門の実務責任者として1882年5月、米・英・独との修好通商条約の締結を推進した。
この一連の国際条約の結果、朝鮮に対する中国の独占的な権益も一部消滅する。
◆激動する内外情勢
その直後の6月、旧式部隊の軍人たちの反乱(壬午軍乱)が起こった。大院君の再執権、清国軍の介入による大院君の逮捕と閔氏の再執権、と情勢はめまぐるしく動いた。
このころから開化政策の進め方をめぐる閔氏政権と急進改革派のあつれきが表面化するようになり、急進改革派は圧迫される。窮地に立たされた金玉均ら急進改革派は1884年12月、甲申政変を起こした。そして大敗北を喫する。
クーデター計画のメンバーからはずされていた金弘集は、政変後の事後収拾を任されたが、開化派全体の地盤沈下のために改革は思うように進まなかった。
そうした中で、1894年に甲午農民戦争が勃発し、これをきっかけに日清戦争が引き起こされた。日本軍の進駐下に金弘集は3次にわたって内閣を担当し内政改革を進めるが、第3次金弘集内閣は親米派、親露派との連立内閣となっている。これは日本公使館の強権的な内政介入に反発が起こったためである。
◆金弘集の死
失地回復を図った日本側は1895年8月、「乙未事件」(閔妃弑殺事件)を引き起こした。また、同年11月には金弘集内閣が「断髪令」を発布する。こうした動きに反発して、各地で義兵闘争が起きた。その動きに乗じて、1896年2月、高宗がロシア公使館に逃れて金弘集内閣は崩壊し、親露派内閣が成立する。
第三次開化内閣の総理・金弘集は閣僚と共に処刑された。光化門前で群衆の石つぶてを受けながら切られたのである。なお、金弘集内閣の内部大臣愈吉濬ら10余人は日本に亡命したが、金弘集は亡命を拒んだとされる。
◆朝鮮植民地化の戦犯・大院君
朝鮮の植民地化に対する責任を個人に問うとすれば、第一の戦犯はもちろん大院君である。1864年から73年までの10年間の執政期間中、当時の国際情勢に関して具体的な情報を集めようともせず、対外政策については無策であった。
彼が頼みとする「大国」清が1840年のアヘン戦争、1856年のアロー戦争に完敗している重大な局面に対して、旧体制の維持のほかには何らの危機感も持たななかった。そして、斥邪衛正を掲げてひたすら無条件の鎖国政策を推し進めた。
この「運命の10年」が朝鮮の近代化をどれだけ遅らせたかは、1881年の「領選使」のいきさつに示されている。
1876年の江華島条約ののち、日本の朝鮮進出を恐れた中国の北洋大臣・李鴻章は、西欧諸外国との条約締結を朝鮮側に勧めるとともに、「領選使」38名の留学生を招いて西洋式武器の製造を含む科学・技術の教育を施そうとした。ところが、19名の両班出身の学生が技術習得を恥ずべき「雑学」として嫌い、間もなく帰国してしまったのだ。身分的に国の中枢たるべき彼らであったが、東アジアの転換期に処する自覚も気概もなかったのである。
◆運命の10年、破滅への道
17世紀以来、西欧における科学技術の発展は目ざましく、生産力の飛躍的な発展と共に社会統合の形式をも根本的に変えた。西欧諸国は「国民国家」の形成を通じて社会統合の力を質的に高め、市場拡大のために対外的な膨張を進める。いわゆる帝国主義の時代が到来したのである。
朝鮮をはじめとする東アジアの諸国が生き延びるためには、こうした新しい国際的力関係の中に積極的に参入し、みずからの立ち位置を決めていく必要があった。長く東アジアの平和を保障してきた中華体制の冊封関係がもはやその有効性を失っていたからである。
にもかかわらず、大院君の10年間に及ぶ執政期間に、朝鮮はむしろ時代に逆行する道を選んでしまった。対外的には妥協を知らない無条件排斥の政策を取って国際的な孤立を深めた。体内的には先進知識の普及をおろそかにし、社会全体の近代的な構造改革をあくまで拒んだ。
こうした立ち遅れは、新時代に適応するためのチャンスを失わせることになり、その後の朝鮮の運命をほぼ決定づけた。
◆急進主義の破壊的結末
ところで、朝鮮の植民地への転落をもたらした第二の戦犯の名を挙げるとすればそれは金玉均であったと言える。
当時の閔妃政権は、おそまきながらも開国へと舵を切っていた。むろん、おなじ開化とは言っても、閔妃政権がつねに王室と閥族の安定確保を優先していたにしても。
したがって、当時の政治地図は、強力な伝統的両班守旧派の鎖国主義と向かい合って、王室開化派、穏健開化派、急進開化派が展開していた。このように、必ずしも悪くはなかった政治情勢の中で金玉均は、主観的な情勢判断によって複雑な政治改革運動を単純化し、不毛な武力闘争に置き換えてしまった。
金玉均は改革主体勢力の基盤を、というよりも一民族の国家経営の人的基盤そのものを根底から破壊し、朝鮮の政治を無能力化してしまったのである。
大院君と金玉均は理念的には対極に位置する。しかしながら、両者に共通点があるとすれば、彼らが共に自己の理念におぼれた独善的な原理主義者だったことだ。
政治において問われるのは結果であって、意図ではない。保守であれ進歩であれ、強引な急進主義は危険な結果をもたらす反動である。
金一男(韓国現代史研究家)