掲載日 : [2018-12-06] 照会数 : 6772
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<13>兵庫津(阿弥陀寺、禅昌寺、兵庫運河)
[ 朝鮮通信使一行が入港しにぎわいを見せた今日の兵庫津 ] [ 一行に随行した僧侶が宿泊した阿弥陀寺 ] [ 「大輪田の泊」の名称をいまも残す橋 ] [ 金義信が書いた扁額「禅昌寺」 ]
史跡追い求めて広がる空想世界
朝鮮通信使一行は、室津を出航して兵庫津(ひょうごのつ)に11回入港している(5、6回目は明石浦を経由)。奈良時代には大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれ良港として名を馳せた。
平安時代は日宋貿易に、鎌倉時代になると修築によって国内有数の港となり、名称が「兵庫津」になった。室町時代には日明貿易のほか朝鮮王国、琉球王国の船も来航している。
そして江戸時代に入ると朝鮮通信使だけでなく西国各地から大坂入りする船舶の寄港地として発展を遂げていくのである。ところが幕末の開国に伴い外国船の停泊地が神戸港に移ったときから、兵庫津は衰退していった。
『朝鮮通信使紀行』杉洋子著(集英社)には、「朝鮮通信使の入港が予定されると、客館普請の入札が行われることだ。長い伝統を持つ貿易港ならではの方法だった。接待に必要な鍋釜はじめ、吸物椀や二之膳まで、新調するのではなく、近隣の村々から御用借入して賄っている」と記されている。
なかなか合理的であり節約的な関西の精神が、ここにも生きていると思われた。
今日の兵庫津周辺は、風や波の影響で多くの船が海難事故に遭ったことから、和田岬を回らないで入港できるように1896年から新川運河と東尻池の海岸を結ぶ工事がはじまり、1899年には兵庫運河が完成された。また最近では阪神・淡路大震災のような大規模自然災害の影響もあり、朝鮮通信使時代の地形がすっかり変わってしまった。
朝鮮通信使の三使、上官は大商人邸、中・下官は商家などに宿泊したと書かれていたが、その場所は見当たらなかった。ただ僧侶が宿泊した阿弥陀寺、朝鮮通信使の金義信(写宇官)が書いた扁額「禅昌寺」には辿り着くことができた。地図を片手に兵庫区を歩き廻っていると、私の行動に興味を持ったのか中年の女性から「ウロウロするのが好きなのですか?」と声を掛けられてしまった。
「兵庫城跡」「古代大輪田泊の石椋(いわくら=石を積み上げた防波堤や突堤の基礎)」「柳原惣門」など、歴史に縁のある場所はあるが、朝鮮通信使関係の史跡には気づけなかった。その面影のない白い印画紙。そこに私なりのイメージを重ねながらの取材は、他人には見えない空想の世界が広がっていた。
藤本巧(写真作家)
(2018.12.05 民団新聞)