掲載日 : [2018-12-19] 照会数 : 7033
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<14>大坂(尻無川、御船蔵跡、直通路開通記念碑の碑)
[ 尻無川南岸直通路開通記念碑 ] [ 朝鮮通信使が大船を停泊させた御船蔵跡。現在は岩崎橋公園になっている(大正区) ] [ 尻無川周辺は朝鮮通信使が利用した公的な水路(大正区) ]
痛んだ船を修理、水主とも交流
江戸時代、朝鮮通信使が利用する公的な水路のことを「唐人澪(とうじんみお)」と言った。現在の呼び名は「尻無川(しりなしがわ)」。大阪の南西部を流れ、淀川水系の下流における分流点である。
北恩加島までの産業道路の「尻無川南岸直通路開通記念碑の碑」を撮影したあと、造船関係の工場が建ち並ぶ川沿いを夕陽に向かって尻無川水門まで歩いた。
朝鮮通信使が通った時代の優雅な趣は、感じとることはできなかった。
遠方に見えるアーチ型の造形物は、強風による高潮を防波するために設置された水門だった。尻無川は逆光によって黒く潰れ、キラキラと輝く川に浮かぶ船。その風景は、「浪花百景」の版画のようだった。
甚兵衛渡船場(じんべえとせんじょう)の渡し船で対岸に渡り、「御船蔵跡」のある大正橋駅の方に戻ることにした。
地元の人たちに「御船蔵跡」を尋ねてみたが、首を傾げるだけだった。鉄橋の下をぐるぐる巡るだけで風景は変わらず疲労困憊した。やっと清掃員の情報で、これまで何度も通った猫の額ほどの三角公園(岩崎橋公園)が「御船蔵跡」であることが分かった。対馬で取材した「御船江跡」の広い空間イメージが頭にこびりついていて面食らった。
しかし、案内版の説明文を読むと、「幕府の管船などを納める施設で、川御座船(かわござぶね)には紀伊國丸や土佐丸などの名前が見られ、漆塗りの屋形を持ち、金銅の金具をつけて豪華な装飾を施され、櫓と竿で航行する川船を納める施設であった。
そしてここで大船を停泊させ、朝鮮通信使は川御座船に乗り換え大坂市中に向かった」と書かれていた。
後日、古地図を調べてみると、なるほど「御船蔵」のスケールは大きかった。大澤研一(大阪歴史博物館)さんの『朝鮮通信使と大阪』を読むと、「一行のなかで大坂までの船を操った水主(すいしゅ)たちは、通信使本体が江戸まで往復してくるあいだ大坂に滞在し、痛んだ船を修理した。そのため大坂では他地域ではみられない水主との交流があった」と言われている。
水主だけでなく、朝鮮通信使に随行した様々な職務の人々(医師、軍官、楽隊、料理人、画家、等々)が、善隣友好をしながら旅を続けた。
藤本巧(写真作家)
(2018.12.19 民団新聞)