掲載日 : [2019-05-29] 照会数 : 7733
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<26>醒ケ井 柏原
[ 「本陣」があった周辺 ] [ 問屋場跡=醒井 ] [ 柏原宿(柏原) ] [ 近江国と美濃国との境界線 ]
宿場を線で繋ぎ肌で感じる風景
朝鮮通信使は、醒井(さめがい)の本陣に立ち寄り、庭園で休憩した記録がある。
醒井の旧醒井郵便局を歩いてみると、中山道と合流したあたりから、昔ながらの町並みが続く。季節は春、眠っていた木々が芽吹き川沿いに花が咲いている。古民家の静かな色合いに、花の色彩が映えていた。
名水が湧き出る地蔵川には、初夏から晩夏にかけて水中花「梅花藻(バイカモ)」の白い花が咲くという。
江戸時代、宿駅であったこの街道。諸大名、御用役人たちに人足や馬を提供した問屋場(といやば)。現在は醒井宿資料館として存続している。その側には「本陣跡」を示す木碑があった。ここで朝鮮通信使の三使は、茶菓子の接待を受けたのである。
朝鮮通信使は「中山道松並木」、「小川の関所跡」を抜け、次の宿場である「柏原」に向かった。
「造り酒屋跡」の側に、屋根に特徴のある母屋造妻飾りが重ねる松浦氏の邸宅。改築されて「柏原宿歴史館」に生まれ変わっている。その館の企画展として、朝鮮通信使が立ち寄った茶亭「望湖堂」で残した漢詩を写した茶器、それから「朝鮮通信使が通る沿道の村に割り当てられた負担金」などの書状も展示されたことがある。
街道を歩いていると、旅人の目印となった「一里塚」に出会った。主要な街道に1里(約3・927キロ)ごとに塚が築かれた江戸時代。久禮、醒井、柏原の一里塚跡の道標は、携帯の地図ソフトよりも正確な距離計算が出来て助かった。
柏原宿の本陣跡を撮り終えたあと、さらに東の方角に歩いた。あともうしばらく歩くと、安藤広重の「今須宿の図」に描かれていた宿場に着く。ここは近江国と美濃国の境界になる。
朝鮮通信使を迎えることは、将軍にとって重要な行事だった。両国の「善隣友好」を掲げ、釜山から大坂までの海路は、朝鮮通信使が立ち寄った港ごと、つまり点での取材であった。しかし陸路(朝鮮人街道、中山道、美濃路)での取材は、朝鮮通信使が辿った宿場を線で繋ぎながら、資料だけでは味わうことの出来ない風景を肌で感じていた。江戸への道はまだまだ続く。
藤本巧(写真作家)
(2019.05.29 民団新聞)