掲載日 : [2018-12-27] 照会数 : 7049
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<15>大坂(金漢重の墓、美具久留御、魂神社、北御堂、南御堂)
[ 朝鮮通信使が宿泊した北御堂(本願寺津村別院) ] [ 朝鮮通信使が宿泊した南御堂(真宗大谷派難波別院) ] [ 絵馬を所蔵する美具久留御魂神社 ] [ 朝鮮通信使の船旅を描いた絵馬 ] [ 竹林寺の墓地 ]
絵馬に託した異国文化の衝撃
いにしえの時代に大阪・河内長野には多くの渡来人が住みついた。
金達寿著『日本の中の朝鮮文化』(講談社、1972年)には、「河内にはこれら百済王族から流れ出たものとされる大豪族が、あちこちに目白押しとなっていたもののようである」。確かに百済川が流れ、百済由来のお寺が多数存在する。
その区域に、美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)がある。縄が渡された石柱を潜って数メートル、鳥居の側に「奉納絵馬」についての由来が書かれていた。「天和2年(1682年)に友好親善使節として派遣された第7回目の朝鮮通信使の船旅の様子を描いた絵馬(縦98㎝、横189㎝)を所蔵する」。
その絵馬が発見されたころは、多くのマスコミが取材に来たものだったが、世界記憶遺産として登録されてからの久しぶりの来訪者だと、宮司に言われた。
通された部屋の壁に、その船絵馬(1695年吉日奉納)が飾られていた。落ち着きのある色合いが残る船絵馬は、上下二段に各三隻ずつ並んぶ六隻の御楼船や川御座船が描かれていた。朝鮮通信使であることを示す形名旗(けいめいき)。それから団長の「正」に副団長の「副」と染め抜かれた旗、横には棹(さお)を操る船頭、それを指揮する武士、櫓を漕ぐ人なども描かれている。
絵柄の左端に、筆文字で大きく「元禄八年九月吉日」と書かれ、奉納者の名前が記されていた。
辛基秀は「朝鮮通信使との出会いを一生の快挙として喜んだ平三たち十一人は、村の氏神に報告するとともに、異国の文化の強烈な絵馬として奉納することにしたのであろう」とし、「回船問屋ではない農民が乏しい金をだしあって、大坂高麗橋の有名絵師に無理を言って発注したものか、板の材質は悪く反り返ってしまい金具もはずれているが、彼らの心意気が村人たちに朝鮮通信使を身近な物に感じさせたのであった」と書かれていた。
大阪には朝鮮通信使縁の場として、大阪西区にある竹林寺の墓地には、1764年の小童として参加し厳寒の中で暴風雨にあい病死した「金漢重の墓」が祀られている。大坂での宿泊地は、北御堂、南御堂、そして寺沢正成の大坂屋敷だった
私の推論であるが、貴志桜井村の人々の先祖が渡来人であって、船上での朝鮮通信使たちの振る舞いに、眠っていた血が騒ぎ「船絵馬」の奉納となったのではないかと思いながら、シャッターを切りった。
藤本巧(写真作家)
(2018.12.28 民団新聞)