掲載日 : [2019-01-17] 照会数 : 6821
時のかがみ 「韓国の創作童謡」 仲村修(韓国児童文学翻訳家・研究者)
[ 「オリニ」各号の表紙(一部) ]
祖国の子を思った留学生が生み出す
昨年の11月、神戸の保育専門学校の授業を受け持つことになった。拙宅まで口説きにきた老理事長さんの話を聞いて感銘を受けた。
「在日の人たちの多い関西では保育士も韓国のこと、在日のことについて知っておかなければなりません。ここ数年、韓国語とベトナム語を科目に取り入れています」
結局1週間に1回の授業を全部で4回、「コリア一般」「昔話」「絵本」「童謡」と教えた。初めてのことだけに準備でアワをくった。しかし嵐の1カ月が終わってみて、引き受けてよかったと心から思った。
さて、今日は授業の余韻で童謡のことに触れてみたい。
韓国の創作童謡は日本と同時代に作られはじめたが、その動機は天地ほどに異なった。
日本では明治以来の唱歌、つまり国家主義的で、非文学的で、歌詞が難解で、子どもの情緒とかけはなれた唱歌への批判として童謡が生まれた。その先鋒は作家の鈴木三重吉で、かれは発表舞台として児童雑誌『赤い鳥』(1918~36)を創刊した。その背景には大正デモクラシーの流れがあった。
さて、この童謡運動を注視していた韓国人が東京にいた。1920年に東洋大学に留学してきた方定煥(パン・ジョンファン)だった。
祖国で天道教少年会を立ち上げてきたばかりのかれは、活動内容をどんな中味にするか模索していた。学校にいっても日本の唱歌しか習うことのできない祖国の子どもたちの境遇に、深く胸を痛めていた。
1923年、かれは意を決して東洋音楽学校(現東京音楽大学)に留学中の尹克栄の下宿を訪ねた。そしてかれに自前の童謡の必要性を説き、結成予定の児童文化研究会にもさそった。
こうして1924年に生まれたのが「お正月(ソルラル)」「半月(パンダル)」で、方定煥のつくった児童雑誌『オリニ』(1923~34)に発表された。
『オリニ』にはその後、いろいろな作曲家による童謡が続々と発表された。「故郷の春」、「お兄さん(オッパセンガッ)」、「タオギ」、「野うさぎ」など。
解放後は童謡はさらに活発に歌われた。「わたしたちの願い(ウリエソウォン)」「わが国の花(ウリナラコッ)」、6・25以後には「花畑で」「木の葉ぶね」「青い心白い心」「果樹園の道」、現代では「パパとクレパス」「三匹のくまさん」などなど、いずれおとらぬ名曲である。
授業ではスマホも用いた。時間の最後に今日習った童謡を各自のスマホで聴いてみた。たいていの学生は「韓国童謡 三びきのくまさん」と検索し、でてきた画面を動画画面に切り変えて驚喜の声をあげた。
ハイ!では、読者のみなさまも童心に帰って、どうぞ!
わかってみれば、縁遠い韓国童謡も手の中にあった。
童謡の力もまた、友好の力や共生の力に変えられたらと願っている。
(2019.01.16 民団新聞)