掲載日 : [2019-01-17] 照会数 : 7506
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<16>大阪から京へ(八軒家浜船着場、大阪城、唐人雁木旧趾、耳塚)
[ 八軒家浜船着場 天満橋(大阪) ] [ 桂川 納所町周辺(京都) ] [ 「唐人雁木旧跡」納所町(京都) ] [ 朝鮮から戦勝の証として持ち帰った耳や鼻を埋めた「耳塚」 ]
淀に上陸する船団を提灯で歓迎
桜が満開になる季節、大川(旧淀川)の左岸に設けられた八軒家浜(はちけんやはま)船着場を取材した。
朝鮮通信使は御船蔵(三軒家・大正区)に大船を停泊させて、河川のみで使用する大名御用達「川御座船(かわござぶね)」に乗り換え、大坂の船着場から京に向かった。
大川沿いを天満橋の方角に歩いていると、ビルの谷間から豊臣秀吉が建立した大阪城が見えた。
秀吉は朝鮮に兵を出して侵略しようとした文禄・慶長の役。この戦いで隣国に多大な被害をもたらした。またそのとき豊臣軍は、敵の首を取る代わりに耳や鼻を削ぎ落とし戦勝の証とした。京都市東山区の豊国神社門前にはその証を埋め供養するため、秀吉は1597年に「耳塚」を築造した。
朝鮮通信使一行は、どのような思いで大阪城を眺めてたであろうか?
淀川を逆上って伏見に入った朝鮮通信使は、淀城下に上陸した。現在の地名でいうと納所(のうそ)町である。
現在は交通量の激しい場所となってしまったが、その道路の脇に船着場があったことを記す石標「唐人雁木(とうじんがんぎ)旧趾」が立っていた。
朝鮮通信使が1748年に淀に上陸したときの船団図「朝鮮聘礼使淀城着来図(ちょうせんへいれいしよどじょうちゃくらいず)」(淀藩の藩主渡辺守業筆)。
淀城を中央に配置した俯瞰図である。その構成は、木津川を何隻もの朝鮮通信使の川御座船が旗をなびかせて進む。それらの行列の様子に歓迎の幕や提灯。大勢の見物客も描かれていた。食材などが用意された建物「下行所」付近から鶏が逃げだしたのか、それを追い掛ける通信使などが描かれている。その絵図から両国の友好の姿が伝わってきた。
朝鮮通信使は、このあと鳥羽街道を北に進み実相寺で休憩。正使、副使、従事官の三使以下、衣冠を改め京入りに備えたのであった。
大阪と京都を結ぶ船路は、1910年に京阪電鉄が開通したことや、道路網の充実などで1962年に水上交通はいったん消えたが、最近では淀川の歴史に興味を持つ人たちが増え、これまでは枚方の船着場までだったのが、伏見まで延長する復活プロジェクト「淀川三十石船」が始動した。
藤本巧(写真作家)
(2019.01.16 民団新聞)