掲載日 : [2019-01-30] 照会数 : 7342
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<17>京都(大徳寺、相国寺、本能寺)
[ 釣鐘の後方に宿館となった総見院、聚光院(京都) ] [ ゆかりの書簡や絵画資料を保管する相国寺(京都) ] [ 本能寺(京都) ] [ 大徳寺の配置図(京都) ]
正使と深い友情結んだ僧侶も
鎌倉時代末期に開創された大徳寺。室町時代には応仁の乱で荒れはてたが、一休和尚が再建している。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀と菩提を弔うために総見院を建立した。この寺に朝鮮通信使は4回滞在している。
立て札「朝鮮通信使ゆかりの地」には、朝鮮通信使が1607年に大徳寺を訪れたときの宿館地の詳細が記されていた。正使たちは天瑞院。随行員は総見院とか真珠庵。それから護衛の対馬藩主に五山僧たちは興臨庵、聚光院、大仙院に宿泊している。
大徳寺は、1590年(豊臣秀吉時代)から朝鮮通信使を受け入れていた。
この寺の修復で出入りする職人さんの話から、遺物部屋に「朝鮮通信使」と記された箱が並んでいたと聞いたことがある。大徳寺には数多くの院、庵、寺が存在するが、いつも公開されることはない。また玄関には「撮影禁止」の表記が貼られていて、境内の撮影ができなかった。その理由を僧侶に尋ねてみたが「寺の都合で……」だけ言って僧房に消えていった。
法堂の「鳴き龍」で知られる相国寺慈照院も、朝鮮通信使と深い関わりがある。
幕府から対馬に派遣された京都五山の僧侶たちは、朝鮮との外交文書作成、通信使の応対、貿易の監視などを以酊庵(いていあん)で執り行うのである。そのなかに別宗祖縁(べっしゅうそえん、1658年~1714年)がいた。彼は第8回朝鮮通信使(1711年)に同行している。そのときの正使だった趙泰億とは深い友情に結ばれていた。相国寺には、二人が交わした書簡や絵画資料などが保管されていることを資料で知った。
この寺でも撮影禁止の場所が多かったので、ここでもその理由を僧侶に尋ねてみた。「魂が抜かれるから」のたった一言で終わってしまった。
韓国国立中央博物館が景福宮にあったころ、朝鮮通信使の巻物を撮影するにあたり、研究員からストロボでの撮影を禁止された。誰に教わったのか「強力な光を当てると、遺物の魂が抜かれるから」ということだった。今日の博物館(韓国)においては、照明器具の規制はもちろんない。
私は本能寺でも、撮影アングルを正門と外観だけに留めて取材を終えた。
藤本巧(写真作家)
(2019.01.30 民団新聞)