東京に留学していた被植民地出身の若き学生たちが1919年2月8日、神田区西小川町(当時)の朝鮮基督教青年会(YMCA)会館で独立を宣言してから100周年を迎える。同宣言は3・1独立運動の「導火線」の役割を果たした。アジアの弱小民族の独立闘争にも大きな影響を及ぼし、インドの詩聖、タゴールが「大きな力になった」と韓国に感謝した1929年の献詩「東方の灯」ともいうべき運動だった。
2月8日、東京には午前11時ごろから粉雪が降り出していた。やがて、30年ぶりの大雪に見舞われることになる。この日、東京朝鮮基督教青年会会館1階講堂(現在の在日本韓国YMCA)で午後2時から朝鮮留学生学友会の総会が開かれることになっていた。
会場周辺では当局が午前中から40~50人を繰り出し、厳戒体制をとっていた。当局にとって当時の学友会は留学生というよりも「潜在的犯罪容疑者」。その思想をマークし、行動を常時監視すべき存在だった。
土曜日ということもあって午後いちばんから会場に詰めかけていた中心的な学生たちは、会場周囲の制服、私服の警官を目にして息をのんだ。胸のなかでは不安と決意が交差した。「きょうの計画は無事実行されるだろうか」「いや、是が非でもやりとげねばならない。独立宣言書、決議文だけはどんなことがあっても読み上げねば……」
会場は定刻前から立すいの余地もないほどだった。当時の新聞報道などによれば、結集したのは400人ないしは600人ともいわれている。
1910年から19年までの年平均留学生数は636人というから、東京にいる留学生の大半が一堂に会したといっても過言ではない。
学友会会長の白南奎が総会の開会を宣言。開会祈祷が終わると同時に前から2列目に座っていた崔八〓が席を立って「緊急動議!」と叫びながら壇上に駆け上がり、上ずった声で「朝鮮青年独立団を発足させよう」と呼びかける。
すぐに声討が始まった。徐椿、李琮根、さらに女子学生の金瑪利亜も壇上で演説。「いまや独立の機は熟している。われわれは祖国と民族のために最後まで闘うぞー」。演説というよりも叫びだった。場内は「オルソー」「オルソー」(そうだ)の大合唱だった。
間髪を入れず白寛洙が独立宣言書を朗読した。白寛洙の背後の壁にはいつのまにか絹布に墨黒々と書かれた独立宣言がさがっていた。
「朝鮮独立青年団は、わが2000万民族を代表して、正義と自由の勝利を得た世界万邦の前に独立を期成せんことを宣言する」。場内は波を打ったかのように静かだった。暗唱しているかのように朗々とした白寛洙の声だけが会場の隅々まで響き渡った。留学生たちからは嗚咽がせきを切ったかのように流れ出た。
たたみかけるように金度演が決議文を読みあげた。「要求が失敗した時には、わが民族は日本に対し、永遠なる血戦を宣布する。これによって発生する惨禍はわが民族がその責を負うものではない」。この最後の句節には留学生たちの亡国の悲哀、愛国愛族の情、祖国独立・再建への気概がすべて叩き込まれていた。 この後、参加者全員による示威行進で大日本帝国議会と日本政府への請願を計画していたが、警察の解散命令を受け、実現しなかった。宣言署名当時者を中心とする27人が靴を履かせてもらえず、裸足のまま雪の降る凍てつく夜道を西神田署に連行された。
朝鮮近現代史を専門に研究している姜徳相さん(在日韓人歴史資料館初代館長)は著書で「3・1宣言とは文脈の構成において相似性を持ちながらも、2・8宣言のほうが独立宣言としての思想性や説得性ははるかに高いものがある。単なる学生運動の宣言ではなく、3・1運動を誘発し、リードした宣言である」と高く評価している。
(2019.01.30 民団新聞)