掲載日 : [2019-02-14] 照会数 : 6985
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<18>滋賀(朝鮮人街道)
[ 中山道と朝鮮人街道の分岐点(野洲町) ] [ 瀬田の唐橋(大津) ] [ 蓮照寺(野洲町) ] [ 蓮照寺に移されて残る道印石(道標) ] [ 背くらべ地蔵 ] [ 朝鮮人街道から東海道新幹線を望む ]
家康専用道、通信使には通行許す
写真展『日本の中の百済村』(2016年)の撮影で、近江(現滋賀)を歩いていたとき、「朝鮮人街道」の道標が目に入った。過去に「朝鮮通信使始末…幕臣・新井白石の決断」(1987年、NHK放映)の取材に関わったことがある。私はこの時のこの道標が誘い水となり、「朝鮮通信使」の痕跡を改めて辿るようになった。
朝鮮人街道とは、徳川家康が「天下分け目の関ヶ原」の戦いで勝利したとき、この道を通ったことから縁起の良い将軍専用の街道となった。またこの道に権威を持たせるため、参勤交代などの諸大名の通行は禁止した。だが唯一の例外として、朝鮮通信使が国賓として送迎する時だけは許されたのである。その距離は中山道との分岐点から琵琶湖東岸を北上して、再び中山道に合流する鳥居本(彦根市)までの約41kmを示す。
朝鮮通信使は京を出発して、逢坂峠(おうさかとうげ)を越えて大津の本長寺で宿泊。その翌日には、徳川家康が築城した旧膳所(ぜぜ)城下を通過。「唐橋を制するものは天下を制す」と言われた瀬田の唐橋を渡り中山道に入った。野洲町小篠原あたりから、中山道と朝鮮人街道に分かれる。
私は野洲駅周辺で「道印石(道標)」を探した。むかしのことではあるが、その道標が事故で折れていたのを村人が見つけ、行畑の蓮照寺(れんしょうじ)に持ち込んだため、本来の位置である小篠原から200mほど西方に置かれてしまった。「右中山道、左八まん道
享保四年(1719年)」と深く刻まれた文字。その年号は、第9回目の朝鮮通信使が来訪した時代と重なる。
円山応震の筆となる「琵琶湖之図」(1824年・文政7年、滋賀県立琵琶湖文化館蔵)には、朝鮮通信使が雄大な琵琶湖(大津市石場付近)の片隅を行進する姿が、淡い色調で描かれていた。
私はその「朝鮮人街道」の標識を目印に歩き出した。横断歩道を越えたところに、中山道を往来する旅人を見守ったと言われる「背くらべ地蔵」。街道沿いには祇王井川(ぎおういがわ)が流れる。久野部の村を歩いていると、田園風景越しに新幹線が走っていた。それから私は、織田信長が整備したという街道沿いの集落(冨波、永原)を撮影した。ここは、今も古風な佇まいを保ち続けている。
藤本巧(写真作家)
(2019.02.13 民団新聞)