独立宣言書に署名した朝鮮青年独立団11人のうち密使の任をおびて上海にいた李光洙、崔謹愚を除く9人の代表が「ガリ版の不穏な印刷物」の著作者、印刷者、出版者という3つの容疑で検挙され、西神田署から市ヶ谷監獄に移された。このとき、学生たちの弁護にあたったのが花井卓蔵ら「大家」といわれた日本人弁護士だった。
当時の朝鮮本土では反日ないし独立を主張する事件が長引くこと自体そのものが統治にマイナスの影響を与えるということで、即決を旨としていた。この原則は東京でも適用された。
審議は恐ろしいほどのスピードで進んだ。2月8日に検束されてから2月15日に一審判決、3月21日は控訴審判決、上告審判決が6月26日。この間、わずか5カ月足らずのことだった。
一審の結果は崔八鏞と徐椿が出版法違反の禁錮1カ年、ほかのメンバーは同7カ月15日から9カ月までの実刑だった。たった1枚のビラで学生たちを内乱罪に追い込もうとした検察当局のもくろみは日本人弁護士の献身的な活躍によってもろくも崩された。
一審で花井は被告の刑を軽くしようと、「学生の身分で自分の祖国の独立を叫ぶのがどうして日本法律の内乱罪になるのか」と反駁。「民族自決の思潮が充満している今日の情勢にてらして、学生たちの主張は正当なものであり、罰することはできない」と主張。罪を認めたうえで情状酌量による執行猶予を求めた。
しかし、学生たちは刑に服することを覚悟して事を起こしたのであって、もとより無罪になることを望んでいたわけではなかった。民族の尊厳を主張し、最後まで闘ったという事実を歴史の中に残しておくことが必要だったのだ。
こうした誇り高き学生たちの思いをくみ、朝鮮独立の正当性を代弁したのが控訴審から弁護団に加わった布施辰治だった。布施は「一体朝鮮をなんと思うか」(『布施辰治対話抄集』)とばかり被告たちの怒りを代弁した。
布施の関わった控訴・上告による利益は、禁錮1年の判決を受けた2人の刑が9カ月に減じられただけだった。だが、布施は民族の尊厳を主張して闘おうとする被告人たちに最後まで寄り添い続けることで信頼を勝ち得た。
独立宣言の署名者11人は私費留学生が中心だった。尹昌錫(31)と白寛洙(30)を除けば全員20代。10歳から20歳までの最も多感な時代に義兵闘争を目撃して育った世代だ。日本に留学したのは集会、結社、言論の自由が完全に圧殺された故国の状況に比べ、自由の範囲が相対的に大きかったからと思われる。
しかし、伊藤博文が安重根義士にハルビンで暗殺されてから10年もたたないこの時期、留学生に対する日本人の感情がよいわけもなかった。留学生はその行動を常時、監視された。留学生の同志的団結は一面、こうした日本の蔑視施策が生み出したものともいえる。
尹昌錫(青山学院大学英文科)は英字紙「ジャパン・アドバタイザー」(1918年12月1日付)で「独立を渇望する民族の念願を訴えるためアメリカ在住の朝鮮人3人がパリ講和会議に派遣される」という豆記事に衝撃を受けた。研ぎ澄まされた神経がどんな小さな記事でも見逃さなかったのだ。
当時、アメリカ大統領ウイルソンが第1次世界大戦終結後の講和原則として植民地主義の廃絶や民族自決主義を打ち出し、独立国家を持たない民族を勇気づけていたとき。民族自決の風潮を必至とみていた留学生は「厳しい警戒のため本国がただちに立ち上がれないなら帝国議会が開会中の東京でわれわれが決行しよう」と決めた。その根源にあったのは日本帝国の不当な支配に対する朝鮮人全体の怒りだった。
用意した独立宣言書、決議文、民族大会招集請願書は中心メンバーが2月8日午前、帝国議会、朝鮮総督府、各国大使館、内外の言論機関にあてて郵送した。決起の報は翌9日、上海のイギリス系最有力紙「ノース・チャイナ・デイリーニュース」が「朝鮮青年の熱望」と題して伝え、翌日にはアメリカ系の「チャイナ・プレス」も詳報した。
(2019.02.13 民団新聞)