掲載日 : [2019-03-06] 照会数 : 6919
時のかがみ「わが心のオンドル」キム・英子・ヨンジャ(歌人)
雨の日…祖母のさびしげな目
釜山の海雲台に新築された80階建てのマンション。この世界有数の超高層マンションにも取り入れられたのがオンドルだ。
オンドルはかまどの煙を部屋の床下に通し、その熱によって室内を暖める韓国古来の暖房様式である。韓半島と深いつながりのあった日本列島にも伝わり、古墳時代の遺跡の住居群からオンドル状の煙道をもつかまどが多く発掘されている。気候の違いで定着しなかったとみられるが、韓半島では連綿と受け継がれている。昔はかまどに薪や藁を焚いていたのが、練炭から灯油、ガス、ボイラーによる温水方式へと変わった。
在日1世のかたから薪を用いた時代の話をうかがったことがある。故国の家では松の葉も焚き口に入れていて、そうすると良い香りがたったそうだ。
わが家にもオンドルがあった。わが家で焚かれていたのは松の葉ならぬボタ石である。ボタ石とは炭坑で石炭を採掘した後、選り分けて捨てられたもので、その堆積がボタ山だ。太平洋戦争終結後に両親が本州から移り住んだ福岡県の筑豊地方は、かつて日本一の炭坑地帯であった。近くのボタ山からボタ石を拾ってくるのは祖母や子どもたちの役目である。ボタは台所や風呂、掘り炬燵用の七輪などの燃料となる。
母は筑豊での家に座敷や風呂場を増築したが、まず初めに作ったのはオンドルだ。その技術を持つ同胞がいて、何軒もの同胞の家が頼んだという。うちの最も奥まった場所にあって中庭に面したオンドルは祖父母の部屋になった。1958年に父が購入したテレビもこの部屋に置かれたので、5人の子どもたちも夕方や夕食後をオンドルで過ごした。
なかでも末っ子の私は日中もここで過ごすことが多かった。姉たちは学校へ、近所の友だちは幼稚園へ行っている間、幼稚園に通わなかった私は暇を持て余したが、母は商売と家事に忙しい。
ある日、オンドルで祖母のそばにいると、祖母が小さな庭に目をやりながら「アァ、ピガオンダ…」とつぶやいた。韓国生まれの祖母は日本語が話せず、日本生まれの私は韓国語がわからない。ただ何度か耳にするうちに、雨が降ってきたと言っているのだと思った。その時の祖母の目はなぜかさびしげで、その横顔を見ていると私も悲しいような気持ちになって、黙って雨をながめた。この頃祖父はすでに世を去り、祖母はたまに私を連れて少し離れた同胞の家まで遊びに行った。
その後わが家は改築されてオンドルは無くなり、中学生の頃には祖母と過ごす時間も少なくなってきた。時々頼まれて祖母の足の爪を切ると、「アリガトウ」と言って巾着から50円玉をくれた。祖母が他界したのはそれから数年後のことだ。私が最初に覚えた韓国語、それは「ピガオンダ」である。
ふるさとは記憶の中に今も在る父母祖父母オンドルの部屋