掲載日 : [2019-03-06] 照会数 : 7381
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<19>滋賀(朝鮮人街道)②
[ 朝鮮通信使の通った道 仁保のまち(十王町) ] [ 朝鮮通信使の通った仁保橋から日野川を望む ] [ 家屋(冨波) ] [ 常夜灯(上屋) ]
平和な時代を象徴する「土橋」
門構えが茅葺きだった民家、時代劇にでてくるような酒店。それからしばらく歩くと常夜灯などが朝鮮人街道沿いにあった。旅人を江戸時代の風景に導いてくれる。この街道を歩いていると、これまで培われてきたこの村の歴史を感じずにはいられない。
私は祇王井川に沿うように朝鮮人街道を歩いているのであるが、両脇に咲く桜並木が春の訪れを感じさせてくれる。
「朝鮮人街道見取絵図」(文化3年東京国立博物館蔵)には、仁保川(現・日野川)に「土橋」と「板橋」の二つの橋が描かれている。その当時の仁保橋は、板橋の上を渡り対岸の堤防に登る簡単な橋だった。それは戦闘中においては守る側が、簡易な木橋を落とすことで封鎖できる利点があった。
しかし、朝鮮通信使が通行する時には、川元村(江頭村・十王村)と「仁保川橋掛組合」と呼ばれる小南村を始めとする11の村が協力して新たに土橋を造り、朝鮮通信使が楽に川を渡れるようにした。辞書によると「土橋」とは丸太を隙間なく並べて橋面を作るのであるが、表面が凹凸になるため土をかけて踏み固め平らにしたのである。
その当時の漢陽(ハニャン)の橋は、石材を組み合わせた「石橋」だった。ソウルの清渓川(チョンゲチョン)と中浪川(チュンナンチョン)の合流地点に復元された「サルゴジ橋」がある。
「木の国・日本」と「石の国・朝鮮」の自然環境の違いが、橋の構造に特色が現れている。
現在の仁保橋の欄干には「仁保橋と朝鮮人街道」の説明板が掛かっていた。昔の橋の位置は現代の場所より約50メートル下流にあったという。
それから私は、仁保橋を渡って十王町に着いた。
「朝鮮通信使の通った道 仁保のまち」と刻まれた石碑に、近江の人たちが、朝鮮通信使への歴史を今でも大切にしている現れだと感じた。
朝鮮人街道と中山道との分岐点から3時間ほど歩いているのだが、野洲駅の周辺は別としてこれまで行き交う人もない。近江鉄道バスが走っているが、ここ十王町のバス停の時刻表を見ると、午前・午後とも1時間おきに1本の割合でしか走らず、土曜日には本数がもっと少なくなる。そして日曜日はバスは運休する。
東海道本線の近場の村であっても、孤島のように人口が減り車がなくては暮らせない環境になってしまっている。
藤本巧(写真作家)
(2019.03.06 民団新聞)